2021年6月14日月曜日

百年前日記 18

 ちなみにその印刷会社はそこそこ大きな所で、デザインから印刷まで一手にやっていた。面接官の社員に社内をひと通り案内され、印刷所以外の、オフィスのほうも巡った。オフィスには、パソコンに向かってデザインソフトを操作している輩というのがいた。印刷所の人々はつなぎのような作業服姿だったが、こちらはラフな私服だった。
 そのさまを眺めて、こんな疑問が頭の中にわいてしまった。
 僕はどうしてパソコンでデザインソフトを操作するほうじゃなくて印刷工なんだろう。
 別にデザインの仕事がしたいわけでもなかったが、単純に不思議に思った。日芸といったって文芸学科ではデザインとはなんの関係もないが、それにしたってあまりにもなんのスキルもなく、単純作業のような仕事ばかりを求めている。そして七年間働いてなんとかものになった縫製の仕事は、やけに給与が少なく、業種としても斜陽だ。
 どうも社会の中で、うまいことできていない。
 求職者の立場になって、しみじみとそう感じた。そして気付けば三十五歳を過ぎていて、まだ小さな子どもがふたりいるのだった。ああ、これはだいぶまずいな、だいぶまずいな、と思った。
 かくして僕の再就職活動には、暗雲が立ち込めた。
 そもそも社会の中で自分が立派に仕事をしている姿を、自分でもまるで想像できないというのに、なぜ社会がそんな人間をすくい上げてくれるというのか。そんなことをしても、社会になんのメリットもない。世の中には、社会の中で立派に生きようと意気込む人が大勢いるのだ。それは社会を成立させるために必要な数よりももっといて、だからそれらを重用していれば社会は丸く収まる。わざわざその部分が欠けている人間を、社会が内側に引き入れる理由はまるでない。そんな奴はガッツがないから、どうせすぐにくじける。くじけられたら迷惑だ。避けたほうがいいに決まっている。
 ましてや僕は、転職におけるひとつの年齢制限であるという三十五歳を超えているのだ。勤めていた縫製工場は、いま考えると従業員の平均年齢がやけに高くて、男性陣の中で僕は最年少だった。だからあまり自分の加齢のことは気にせずに生きていた。しかし就職活動をスタートし、募集要項などを見るにつけ、じわりじわりとそのことを痛感させられた。
 しかし暗雲は立ち込めたものの、幸いなことに、僕にはまだまだ時間的な余裕があった。雇用保険の受給期間はたっぷりあった。細々と暮せば、そこまで蓄えを減らすことなく暮すことができるはずだった。そもそも七月の段階から、そこまで本気でなかったにせよ、就活を始めたことが間違いだったのだ。
 そう思う一方で、インターネットで収集した就職情報をせっせと提示してくる妻の、「だってあなたは発破をかけなければ本当にいつまでも就活しないでしょ」という言葉に反論することもできなかった。僕には大学生のとき、卒業するまで就職活動をしなかったという前科があった。
 実際、「まだ時間的な余裕がある」からいったいなにが安泰なのか。僕の能力的にも、社会情勢的にも、三ヶ月ほど待機して好転する要素などひとつもないのだった。
 しかしそこからは必死に目を逸らし、無職の夏を過した。