2021年3月31日水曜日

花の春

 花を見に行く。
 花といえば桜のことである。そんなわけで木次へと繰り出した。日本の桜の名所100選にも選ばれている、島根県東部が誇る花見スポットである。
 実はここには去年も行った。なので、今年は桜の開花がわりと早かったが、去年はいつぐらいだっただろうと、1年前の3月下旬から4月上旬のブログを確認しようと思ったのだが、僕もファルマンも、春休みの島根帰省について、おもしろいくらい一切の記述をしていなかった。してないことにしていた。なんでだろう。箝口令でも敷かれていたのだろうか。
 そのときも、岡山在住時代によくやったパターンで、はじめの週末に全員で島根に行き、僕だけが岡山に帰り、ファルマンと子どもたちは1週間を実家で過ごし、また次の週末に僕が島根に迎えに行くというスタイルの帰省だったが、そのひとりで過した1週間の中で、僕は初めての布マスクを製作したのだったと記憶している。これはいま思えば、もはやすっかり定着した実利&ファッションアイテムとしての布マスクの、開始のタイミング的にだいぶ早いもので、桜並木を歩きながら、けっこうすれ違う人々の視線を感じたのを覚えている。「あ、そういうのって本当にありなんだ」と何十人かの蒙を啓いたやもしれない。振り返ってみれば、時代を先取りしたインフルエンサー的なことをしていたのだ。それから1年で世界はすっかり変容した。今年の桜並木を歩く人々は、もちろん全員がもれなく、さまざまなデザインのマスクをしていた。どの時代も変わらぬ桜を眺めながら、文化なんてものは実に簡単に変わるのだな、ということをしみじみと思った。
 お弁当を持ってきていたので、土手に座って食べた(いうまでもないが、島根県だし平日だし、他のグループとは余裕で5メートル以上の距離がある)。しかし風が強かった。行った日の前日が本当に強風で、満開になったばかりの桜がほとんど散ってしまうのではないかと危ぶんだ。来てみたらそこまで壊滅的ではなかったが、しかし葉っぱも出てきていて、明らかにピークは過ぎていた。風もまだ多少残っていて、ラップなどが飛ばされぬよう注意しなければならず、さらには黄砂もなかなかの濃度だったため、「まあ今年も花見をしたってことで!」という、若干せわしない花見となった。とはいえ去年のそれも、布マスクのエピソードなどが甦ってくるように、花見というのはなんだかんだで思い出として残りやすい性質がある気がするので、どんな形でもしておくに越したことはないと思う。できてよかった。
 花といえば桜のことなのだが、春に咲くのは桜ばかりではない。花の郷という、植物園というのか、季節ごとの花を咲かせて来園者をお出迎え、という感じの有料施設へも、春の花々を見に繰り出した。なにしろ30代後半になり、「花を見られる」ようになったのだ。花に限らず、鳥とか、波とか、飽きずに眺めていられるようになったので、こういう施設へも、子どもの写真を撮るため、みたいなよこしまな理由ではなく、実直に自分が花を愛でるために足が向くようになった。
 見た結果、春の花としてのピークはGWあたりに照準を合わせているのか、まだ園内は少し寂しかったが、それでも日常では見かけないような花も多くあり、なかなかに愉しめた。前々から思っていたけれど、やっぱり僕は円形の、平面的な花が好きだな。オオキンケイギクがそうであるように、コスモスやガーベラ、マーガレットやデイジーなど、要するにすべてキク科だけど、ああいうのがいい。鉢で育てようかな、なんて不意に思ってしまうが、たぶんしない。刺繍したいな、とも思い、そっちのほうが実行する可能性は高い。
 そんな春の日々である。

2021年3月26日金曜日

タイヤ解放

 スタッドレスタイヤを、普通のタイヤに戻す。軽自動車なので、義父に教えてもらいながら、自前でやった。タイヤの交換を自分でするという文化が車社会で生きる男たちの中には存在する、ということは知っていたが、まさか自分でやる日が来るとは思っていなかった。自分で嵌めたタイヤの車なんて、恐ろしくて絶対に乗りたくないだろうと思っていたが、必要に迫られれば人というのは観念してある程度のことはやってのけてしまうものだな、としみじみと思った。アクアスはその交換をしてから行ったので、まあ4時間以上運転して問題ないのだから、大丈夫なんだろう。それにしても車のことになると、本心なのかマウンティングなのか判然としないが、義父はやけに「車、メカニック、男、美学、俺」みたいな、そういう空気を出してきて、ホイールのことであるとか、ゴムの具合のことであるとか、やけにいちいち講釈を垂れてくるので、その時間が僕にとってかなり憂鬱だったりする。この程度の男のメカニック醸しでうんざりするのだから、戦争になり、徴兵されたら、僕は間違いなく心を病むだろうな、とこういう時間を過すたびに思う。まあタイヤ交換に関しては会得したので、来年からは義父を交えずファルマンとふたりで作業しようと思う。
 振り返ってみて、今年はスタッドレスタイヤを大いに活用した。山陰でも、「今年はスタッドレスにする意味なかったね」みたいな年もあるらしいが、それでいうと今年は、わざわざ安くない金額で購入した意味が、ちゃんとあった。スタッドレスでなければ死んでいただろう場面が多々あった。なので3月もいよいよ終わろうとしていて、普通のタイヤに付け替えられたことに、山陰ではそれを感じるポイントは数多くあるのだけど、だいぶ強い度合で、冬から春への季節の移行を感じた。これからの7ヶ月間ほどは、われわれは解放される。山陽ではずっと解放されっぱなしだったから、それが解放であると知覚できなかった。普通タイヤを履いている間、われわれは雪のつらみから解き放たれている。そういう観念の違いがある。

2021年3月25日木曜日

アクアス (8年半ぶり、2度目)

 春休みに入った子どもと、僕の休日が合致したので、浜田市にある水族館、アクアスへと赴いた。行ったのは2度目。前回は第1次島根移住が開始して間もない、2012年8月のこと。なので往時ポルガは1歳7ヶ月。ピイガはまだ存在していない。その当時は香川県に住んでいた三女(なんだかんだで誰にもいろいろな変遷があるものだ)が、夏季休暇で実家に戻ってきたタイミングで、三女は動物好きということもあり、一緒に行っていた。片道2時間弱かかるため、交代できるドライバーがいたら安心だということもあり、行くことにしたらしい。それでいうなら今回は交代要員はいなかったわけだが、東京から移住してきてまだ1ヶ月ほどの者と、それから8年半後の、島根と岡山でさんざん車に乗り倒している者とでは、片道2時間弱に対する印象がぜんぜん違うのだった。片道2時間弱は、レジャーのまあいい感じの距離であると思う。
 アクアスはやっぱり規模が大きく、見ごたえがあった。
 ブログには書かなかったが、先月末あたりにゴビウスにも行っていた。あれはあれでおもしろかったが、やっぱりまあ、入場料500円と1500円とでは違うな、という満足感があった。ゴビウスでは、8年前にはたしかにいたはずのエイが水槽にいなくなってしまっていて、「エイの裏側を見るとめっちゃ爆笑する」でおなじみのファルマンが肩透かしを喰らったのだけど、そこでもったいぶられたこともあり、今日のアクアスでは存分にエイの裏側を堪能することができた。しかもでかい。アクアスのエイ、めっちゃでかい。でかいエイは、面積が大きいのはもちろんのこと、裾野が広いと山は高いということなのか、厚みもすごいことになるということを知った。
 アクアスといえばショーということで、ひと通り見て回る。アザラシの紹介ショー、バブルリングで有名なシロイルカのショー、ペンギンのパレード、そしてアシカショー。平日で人が少なかったこともあり、どれもそこまでがんばらなくても、やけに近い位置から見ることができ、とても愉しかった。たぶん人口密度の低さが、生きものたちにも伝わっているのではないかというほど、平日の水族館は牧歌的な空気に包まれていて、生きものたちのかわいさや賢さに、癒されたり感心したり、ほわほわと心地よく時を過した。シロイルカのショーは、この水族館の目玉なのでもちろん素晴らしかったのだけど、あまり期待していなかった、帰る直前にたまたまタイミングが合ったから見ることにしたアシカのショーが、こちらの予想をはるかに上回るクオリティで、感動した。見る前は本当に、「シロイルカとかに較べてアシカって昭和っぽいというか、オワコン感があるなあ」などと嘗めていたのだが、始まってみたらアシカはめちゃくちゃ優秀で、芸達者で、とても優れたエンターテインメントだった。個人的にあのアシカに1000円くらいあげたい、とさえ思った。振り返ってみて、見た順番がよかった。最初にアザラシを見たのは正解だった。歩くだけのペンギンは別として、シロイルカとアシカに較べ、アザラシはそこまで芸が上手ではないようだった。たぶんこれはもう種としての能力の限界なのだろう。最初にそれを見たことで、尻上がりの構成になった。今回はアシカがとにかく発見だった。
 水族館の隣には、アクアスランドと銘打って、かなり大規模なアスレチック公園があった。これのために、アクアスに行く日は春の天気が悪くない日である必要があった。そして今日はその条件を見事に満たしていたのだった。というわけでこれも移住後初となる、大型の公園で遊ぶ、ということを子どもたちにさせてやれた。これも大いによかった。8年半前に来たときの写真を見たら、1歳半のポルガは、歩きもしたが、ベビーカーもまだまだ必要という頃だった。あの頃はアクアスランドの存在なんて、目に入りもしなかった。それが今回は、妹とふたりで放っぽって、両親はベンチで休むなんてことができるようになった。8年半前の自分たちのような、周りのファミリーを眺めながら、「楽になったもんだねえ」などとファルマンとしみじみと語り合った。
 そんな大満足のアクアスだった。いろいろとタイミングに恵まれた、とてもいいレジャーだった。

2021年3月24日水曜日

湯ったり

 ものすごく久しぶりに、「おろち湯ったり館」へ行った。
 島根県に住むようになったら、「おろち湯ったり館」へも頻繁に行けるようになるな、と思い描いていたのだけど、蓋を開けてみたらぜんぜんそうはならなかった。なぜそんなに行かなかったのかという原因については、説明をしようとすると、かなりプライベートな部分をさらけ出すことになるので、明かせない。現世の誰も読んでいないお前のブログが、いったい誰に対してなにを秘匿するというのか、という話ではあるが、であればこそ、自分が書きたくないことを書く理由もまた、一個もないはずである。
 前回に行ったのは12月のはじめのことで、これはファルマンの実家に僕だけが居候していた、あの(暗黒混沌)時期の序盤を指す。ただでさえ精神的にだいぶ来ていたこの時期の、平日の仕事が終わったあとで、救われるために僕は「おろち湯ったり館」へと参ったのだ。そうしたら、初めての平日夜の「おろち湯ったり館」はそれなりに混んでいて、「おろち湯ったり館」は閑散としていてのびのびできるところに魅力を感じていた僕は、それだけで少しショックを受けた。さらには、サウナに入ろうとしたところ、サウナ内にいた老人に、「ちゃんと体を拭いて入って!」と少し強い口調で窘められる、という出来事も重なって、すっかり心が折れてしまった。行かなくなった理由は、それだけではなくて、もっと根深いものがあるのだけど、このたびそういった諸々のことが、季節の移ろいとともに、ようやく僕の中で解消された感があり、満を持して平日の身が空いた日中に、3ヶ月以上ぶりに赴くことができた。移住を経て、岡山では日常的にしていたことが、こちらでは余裕がなくてなかなかできずにいて、でもひとつひとつ、項目にチェックを入れるように、日常生活が回復していく流れの中で、このようやくの「おろち湯ったり館」行きは、自分の中でなかなか感慨深いものがあった。やっとここまで整ったかと。
 平日の日中の「おろち湯ったり館」は、やはりとても空いていた。運営会社の事情も考えない勝手な理屈だが、「おろち湯ったり館」は人口密度が低くないといけない。繁盛していたらダメなのだ。
 温浴の前に、まずはプールゾーンへ進んだ。15メートルほどのプールなのだが、何度も往復し、思う存分に泳いだ。12月のあの日は、慣れない仕事終わりだったこともあり、プールへは行かなかった。なのでこれが、今年初泳ぎであり、島根移住後の初泳ぎだった。なのでざっと約4ヶ月ぶりにもなる水泳は、全身がピキピキと覚醒するような感覚があった。窓になっている天井から、青空と光が水面へと注ぎ込まれ、いろんな意味で本当につらかった冬が終わったことを、しみじみと感じさせた。
 そのあと温浴ゾーンへ。体を洗ったあと、あの日以来のサウナに入った。入る前、もちろん体はきちんと拭く。基本的にいつでも拭くのだ。あの日はたまたま、いろいろ戸惑っていただけなのだ。そんなときに少し強い口調で男の人に注意されたのだ。あの日の僕は本当にかわいそうだったと思う。サウナに10分ほど入ったあと、水風呂。外気浴さえできれば、水風呂って実は必要ないんじゃないかと思っていた時期もあったが、今はふたたび水風呂に価値を見出している。水風呂のあとは2階の露天に上がり、外気浴。この2階が、「おろち湯ったり館」では冬の間、雪や凍結のために閉鎖される。それが12月から3月中旬のことで、つい先日、ホームページに「2階再開」の知らせが出たことが、そのまま春のお告げであり、僕の心の雪解けでもあった。かくしてこうして来る気になった。そして青空の下、ベンチに全裸で横たわった。この心地よさたるや。陽射しを浴びて、全身からセロトニンが放出されているのが手に取るように分かる。時おりそよ風が吹き、陰嚢を撫ぜる。外壁の上から少し覗ける桜は、4分咲きといったところ。ウグイスの鳴き声は、まだあまりこなれていない。精神的にも肉体的にも、強張っていた部分が、ほぐされ、浄化されていくのを感じた。暮しの中で、こんなにも浄化を実感することはそうそうない。大抵はそんな「気がする」程度のことを繰り返して、ごまかしごまかし日々をやり過ごしている。しかしここはそうではない。目に見えての回復がある。やっぱり「おろち湯ったり館」のヒーリング力は半端ないな、と思いを新たにした。
 そんなわけで存分に堪能した「おろち湯ったり館」だった。次はこんなに間を空けずに行きたい。今回は4ヶ月分の「癒されポイント」が貯まっていたので余計に感動が大きかった。しかし今後こんなにポイントが貯まっている状態はなかなか発生しない気もする。それならそれでいいと思う。ほぐされる余地が少ない日々に、越したことはない。

2021年3月21日日曜日

ROUND1の友達たち

 相変わらずぜんぜん友達がいないのに、「友達がいない」という話をせずにいた。どうしてだろうと考えて、たぶんもう僕にとって、僕のこの状態は、「友達がいない」じゃないからだと思った。なんのトピックスもない、「普通」なのだ。脊椎動物であるとか、哺乳類であるとか、そういうレベルで、僕には「友達がいない」。あまりにもいない。
 岡山でも友達はいなかったが、それでも6年半勤めた縫製工場で、5人くらいとはLINEを交換した。結果的に実現しなかったが、「いつかROUND1に行こうよ」という話もしていた。最終的に人類初の800年を生きる僕が、6年半かけて築き上げた、鍾乳石のように希少で尊いそれは、島根への移住でぽっきりと折れた。もっともあくまで彼らとは職場での付き合いだったわけで、移住は関係なく、会社がなくなった時点で関係は切れていた、というのが実際のところだ。5人のうち、僕が島根県に移住したことを知っているのは、年末にたまたま連絡をくれたひとりだけだ。だから「友達がいない」ことと島根移住に関連はない。そのせいにしているだけだ。
 しかしその一方で、上の文の中にはひとつ、「友達がいない」トークにおけるとても大事なファクターが含まれている。それは「いつかROUND1に行こうよ」の部分で、妹尾にあったあの場所に、僕は7年で結局いちども足を踏み入れることはなかったのだけど、それでもいざというとき、その土地にROUND1があるかどうかというのは、友達作りにおいて重大な要素だと思う。鶏が先か卵が先か、みたいな話になるけれど、友達だからROUND1に一緒に行くし、ROUND1に一緒に行ったら間違いなく友達だとも思う。37年間で1回も行ったことがないけれど、ROUND1というのはそういう場所だろうと思う。そして島根県には、ROUND1がない。出雲にないのはもちろんのこと、松江にもない。さらには米子にもない。山陰に存在しないのだ。もっともたとえ米子にあったところで、かつて茶屋町に暮しておきながら妹尾のROUND1に行くことのなかった僕が行くとも思えないが、ROUND1というのは実際に行くとか行かないとかいうものではなく、心のよすがとして救われるという性質のものなので、それがないこの土地では、僕の心はいよいよ途方に暮れる。ROUND1のない世界で、いったいどうやって友達ができるというのか。
 岡山でも僕には友達ができなかったけど、それは僕が妹尾のROUND1に行かなかったからで、たぶん行ったらそこには、閉じ込められていた僕の友達たちがわんさかいて、いつまでも終わらないバブルサッカーをし続けていたに違いない。僕はついぞ彼らを救うことはなかった。そのことに思いを馳せると、たぶんいまでも僕が迎えに来る日を夢見てバブルサッカーを続けている彼らには申し訳なさを覚える。島根にはそもそもそんな状態がどこにもないわけで、友達ができる目が完全にない代わりに、すっきりとした安心感もある。そうだ、このすっきりとした安心感は、そこに由来するのか。ここで暮らす以上、僕はもうROUND1の友達たちのことで思いわずらわなくていいんだ。それならいい。それならばいいよ。

2021年3月15日月曜日

雑魚風邪

 いま、新型コロナウイルスに感染して治療をしている人がひとりもいないといわれている島根県で、ごく普通の風邪的なものを引いている。風邪というのもおこがましいと感じるような、ファルマンいわく「雑魚菌」で、高熱とか寒気とかそういうのは一切なく、ただ喉がイガイガしている。喉のその感じは、一般的な風邪の際、激しい格闘の末のエンディング的に現れるやつであり、ただそれだけが出てくるということは、菌があまりにも弱く、当人が知覚する間もなく体がやっつけてしまったということなのだろう。そんな、そもそも始まっていないようなストーリーならば、エンディングもなければいいと思うが、なぜかそこだけはやってきた。ネバーエンディングストーリーならぬ、ジャストエンディングストーリーだ。
 菌の感染ルートは、保健所に追跡してもらうまでもなく、子どもが学校でもらってきたといういつものパターンで、ポルガが先だったかピイガが先だったか、これはもはや定かではないのだけど、それからファルマンに渡り、そして最後に僕なのだった。家の外では常にマスクをし、そして殺菌への意識の高いこの環境において、感染ルートなんてもはやそれしかない。特にピイガの撒き散らしはすさまじく、このご時世にくしゃみをそんなにノーガードでぶっ放す人間があるかよ、というようなことを、4人でテーブルを囲む食卓でしたりするので、それをされてはもうひとたまりもない。ピイガのそのさまを見て、「思い切りくしゃみをする人」というのを久しく見ていないな、ということを思うと同時に、頭の中には富岳のCG映像が浮かんだ。ニュースなどで去年からたびたび目にする、マスクの効果などを検証するための、あの映像。あの赤とか黄色とか青の玉が、現実のピイガの口や鼻からも、たしかに出ているように見えた。もちろん錯覚なのだが、なんか本当に見えたような気がした。人類は新型コロナウイルス禍を経て、新しい能力を獲得したのかもしれない。ピイガがくしゃみをするたびに、僕とファルマンの間で「富岳だ」「富岳だ」といい合うのが流行っている。富岳って、きっとくしゃみでどんなふうに菌が拡散するか以外に、世の中のいろんな計算をしているんだろうと思うが、本当にそれしか印象がないため、そのうち「くしゃみ」という言葉は「富岳」に取って代わられるかもしれないと思う。

2021年3月12日金曜日

ハンドメイド漫談

 売るのは作品ではなく理念だ、と不織布マスク風布マスクを出品したという記事の中で書いた。なるほど理念なだけあって、売れない。理念というのは、購われないから理念として高潔なのであって、購われたらその時点で理念ではない。だから売れなくて正解だ、とも思うが、その一方で、お前はminneに登録して一体なにをいっているんだ、とも思う。
 理念を売る、ということで思いついたのだけど、マスクは顔が隠れるのが欠点で、それの打開策としてフェイスガードなんかも試みられているけれど、しかしマスクに較べると感染防止の効果が低いとか、そういう問題があるわけだが、その解決方法として、「透明の布で作ったマスク」があればいいのではないだろうか。透明の布なんてこの世にないだろうと思うかもしれないが、実はあるのだ。ただしこの透明の布が透明に見えるのは、新型コロナウイルスに感染していない人だけで、感染している人が見ると、ドブみたいな色が浮かび上がる。だからこの透明マスクが透明に見えている間は感染していないということになり、一種の検査にもなる。……いや、違うか。それをいうなら「新型コロナウイルスに感染していない人にしか見えないマスク」か。minneの商品ページには、なにも載っていないただのテーブルが写し出され、注文すると空っぽの封筒が届く。でも実はあるんです。新型コロナウイルスに感染していない人にしか見えないマスクが。えっ、あなた、このマスクが見えないっていうんですか。まさかね。さあみなさん、健康な人だけに見えて、着けることができるこのマスクを着け、春の陽気に誘われ、どこへでも出掛けちゃいましょうよ。……という、これを本当にやったらminne出禁になるんだろうな。
 ハンドメイドといえば、2月にわれわれ一家と義母と義妹で出雲大社に参拝に行ったのだけど、そのとき義母から指摘されてハッとしたこととして、われわれ一家4人はそのとき、全員が僕のハンドメイドのバッグを持っていたのだった。客観的にそのことに気づかされ、「ちょっと変な一家!」と思った。そしてそのとき引いたおみくじの、「人に交はるには、和譲・恭敬・寛恕を旨とすべし。仮にも驕慢の態をなすべからず。」というフレーズは、よほど定着力が低いのか、本当にすぐ心から剝がれそうになるのだけど、心に刻み付けるために、おみくじそのものを壁に画鋲で貼って、ことあるごとに眺めている。和譲・恭敬・寛恕。驕慢ダメ。和譲・恭敬・寛恕。驕慢ダメ。そして僕はminne文法を放棄し、理念を売る。もしかするとこのおみくじは、馬鹿にしか見えないのかもしれない。

2021年3月11日木曜日

10年

 10年である。丸10年だ。
 10年という歳月を前にして、表現は陳腐になる。あっという間のようにも、果てしなく長かったようにも感じる10年。年末の、1年を漢字1文字で表すやつに無理があるように、10年を何百文字かほどの文章で表現するのも不可能だ。
 10年で自分はそこまで変わっていない、という気持ちを、前向きな意味でも後ろ向きな意味でも抱いているけれど、27歳が37歳になっていて、0歳児だった長女が10歳になっていて、次女もできていて、都民だったのが島根県民になっていて(ただし10年間で最も長いのは岡山県民時代だ)、それに合わせて職もずいぶん変わっていて、実際はだいぶ変わっている。客観的に見て、変化が大きかったほうの部類に入るとさえ思う。
 僕のこの10年間の変遷は、東京から島根への最初の移住の理由として、たしかに東日本大震災の放射能禍はあったけれど、実行に移したのは1年半後である2012年の夏だし、なにより住んでいたのは練馬区だったわけで、それで震災を理由にするのは実はだいぶおこがましい。そこから流れ流れて現在2度目の島根県にたどり着き、いまの生活はとても気に入っているのだけど、圧倒的な海や空や山に心が洗われたり、地物の魚や肉や野菜がおいしかったりする、こういう暮しが、10年前、かの地では突然に奪われたのだと思うと、当時よりもはるかに差し迫った気持ちで、そのつらさが理解できる。田舎の人が田舎を奪われたら、どうしようもない(書いていて思ったが、それに対して都会の人たちは、今回のコロナ禍で、都会暮しのアイデンティティである、つるむことを奪われたので、どうしようもなくなっているのかもしれない)。たぶんこれは10年で、27歳が37歳になり、花のつぼみを愛でたり河の流れを眺めたりすることができるようになったから、感じられるのだと思うが、自然の恩恵って、とてつもなく尊いのだ。結局のところ、人間なんていったって生きもののひとつなんだから、どうしたって自然にひたすらおもねって生きていくのがいちばんだな、ということを近ごろしみじみと感じる。10年前は、それが奪われたのだ。いま島根に暮していて、そのことの絶望をまざまざと思い知る。
 もちろんその一方で、地震や津波が奪った命のことも思う。これは都会も田舎も関係ない。都会に住んだり、田舎に住んだりというのは、家族のしあわせを勘案して選択することだ。なにより家族の命ほど大事なものはない。このこともまた、10年前よりも僕の理解は深まっていると思う。
 今日は労働が休みだったので、14時46分にテレビの中の人たちと一緒に、ファルマンとふたりで黙祷をした。やがて娘たちも、学校で黙祷をしたといって、家に帰ってきた。書き出しから締めまで、本当に陳腐な言い回しになってしまうのだけど、こうして家族で無事に日々を送れていることに、深く強く、感謝をして生きていこうと思う。

2021年3月9日火曜日

娘たちの父

 娘たちの言葉が聞き取れない。年々聞き取れなくなっている。
 ポルガは人と話すことを億劫がるところがあり、自分の発言についても、自分がしゃべりたいからしゃべるのであって、相手の耳に届くかどうかはどうでもいい、みたいに思いっている節がある。そのため言葉のおしまいのほうはもちろんのこと、ひどいときには話の最初の3文字くらいしか聞き取れないときもある。しかも早口なのだ。それなのにポルガの主な話し相手である母(ファルマン)や妹は、これまでの日々で培ってきた特殊なスキルがあるものだから、それでも聞き取れてしまえる。そのためポルガのそれはいつまでも修正されない。それどころかますます増長する。僕はそこまで子どもと会話をしてこなかった父親ではないと思うけれど、それでも理解には限界があり、ましてや異性ということもあるのか、娘が話していることの内容の取れなさは、どんどん加速してきている。しかし世間の人々は、そんな僕よりもさらにポルガの言葉を聞き取る能力は低いわけで、せめて僕が防波堤となり、ポルガの「ちゃんと喋らなさ」を正していかねばならないだろうと思う。そのため聞き取れないときは、ためらうことなく「そんなんじゃ聞き取れない。もっとちゃんと喋りなさい」と注意している。しかしそうやって注意していて、たまに、「本当にポルガの言葉は世間一般から見て聞き取りにくいのか?」と疑問に思うことがある。そもそも僕は、引け目というほどではないし、健康診断とかで異常といわれたこともないけれど、子どもの頃に長く中耳炎だったこともあって、聴覚にそこまでの自信を持っているわけでもない。視力のように、1.0とか、0.2とか、そういう尺度があるとするならば、まあまあ悪いほうなのではないかな、という気がしている。そんな僕だから聞き取れないのではないか、という一抹の疑念がある。ファルマンとピイガは話を聞き返さない、というのがそれをますます搔き立てる。もしもそうだとしたら、僕は37歳にして早くも「耳が遠くなって苛々している人」ということになる。それはとても怖い想像だ。また「ましてや異性」ということを書いたが、異性でしかも世代が違うということが、話の内容はもとより、根源的な周波数的なものの違いを生んでいて、それもあって聞き取れないのではないかとも思う。もしもそうだとしたら、娘の代でそうなのだとしたら、娘たちの生む子ども、すなわち孫の世代になったら、祖父となった僕は、いよいよ言葉がぜんぜん聞き取れなくなるのではないか。そして孫の言葉がぜんぜん聞き取れないものだから、ずっと苛々している老人になるのではないか。そう考えると本当につらい。
 冒頭に「娘たち」と書いた。ここまではポルガの話である。じゃあピイガはどうなんだといえば、ピイガはしゃべるのを億劫がることはない。それどころか、起きている間はずっとしゃべっているというくらいおしゃべりである。しかもそれのボリュームがすさまじく大きい。腹から声を出し、すぐ隣にいるポルガに向かって、体育館の端から端まで届くような声でしゃべる。僕は大きい音が嫌いなので、同じ空間にずっといると、頭がどうしようもない状態になって、あえなく避難を余儀なくされる。だからこれはこれで、話を聞くことができない。
 かくして不明瞭早口と大音量という、ふり幅の大きなふたつの案件が、僕と娘たちとの会話を阻む。そうして僕はどんどん、娘たちとの会話を失っていく。なるほど娘しかいない家庭の寡黙な父親というのはこうやって醸成されていくのか、と自らの身をもって得心した。それはそうだ。どうせ成り立たないのだから、会話をする機会はどうしたって減る。これはこんなにも避けようがない、仕方のないことだったのか。

2021年3月7日日曜日

minneへの出品は趣味の世界

 久しぶりにminneに出品をした。「不織布マスク風の布マスク」である。
 不織布マスク不足の去年、布マスクを作って出品することには抵抗があり、販売せずにいたが、今はもう不織布マスクが以前と変わらない値段で店に並ぶようになったので、自分の中でゴーサインが出た。なぜわざわざ需要がなくなってから出品するのかと我ながら思う。minneはいちおう小遣い稼ぎのためにやっているのだが、自分でも感心するくらい商売が下手だとしみじみ思う。ファルマンにもあきれられたので、「俺はマスクを売るんじゃない、理念を売るんだ」とうそぶいた。そして商品の説明文で、去年からのマスク狂騒について、思いの丈を書き連ねた。これまでの商品では、minne文法というか、minne世界観というか、そういうものに沿った、おもねった文章をつけていたけれど、そう媚びたところで僕の作ったものがそうそう売れるわけではないし、それならばもう自己表現のほうに舵を切って、書きたいことを書きたいように書くことにしよう、と開き直ったのだった。「実際のあなたのことを知っている人なら分かってくれるかもしれないけど、知らない人は、絶対にこんな面倒臭そうな人からマスクなんか買いたいと思わないよ」とファルマンはいった。僕もそう思う。
 面倒臭そうな人ついでに、トップ画像に合成した惹句として、「新型コロナウイルス対策への意識が高いことで知られる島根県で作りました。」というフレーズをはじめは構想していた。46道府県で唯一、都と国に楯突いたあの島根県ですよ、という意味である。県知事が聖火リレーの中止を検討したことと、僕のマスクには実際はなんの関係もないが、まあなんとなく東京で作ったマスクよりも島根県で作ったマスクのほうが穢れてないように思う人もいて、耳目を集めるのではないかと思った。意外と貪欲な商売っ気もあるのだ。しかし出品する段になって、minneのマスク販売規定に、「特定の病名やウイルス菌の表示や、それらに対する効果・効能等の表記は避ける」というのがあることを知り、泣く泣く前半部を削り、「島根県で作りました」のみにした。これだけではこちらの真意にたどり着いてくれる人はあまりいそうにない。たぶん島根県知事の一連の問題提起も、すぐに風化してしまうのだろうし。これならば「出雲大社のお膝元で作りました」のほうがよかったかもしれない。ウイルス対策が神頼みじゃダメだろうとも思うが、そんなこといったらアマビエはどないやねん、という話だ。
 出品して2日ほどが経つが、購入もなければ「いいね」もない。凪いでいる。まあこれは仕方ない。もう世の中、布マスクのバブルは弾けたのだ。弾けたから参戦したのだし。家賃が掛かるわけじゃなし、売れたらそれこそ儲けものという感じで、趣味に生きようと思う。今回、minne文法ではない説明文を書いたら気持ちがよかったので、これから出品するものは全てああいう感じの、理屈っぽくて、面倒臭そうな人っぽい、すなわち僕本来の文を添えることにしようと思った。売るのは作品ではなく、理念だ。