2021年3月9日火曜日

娘たちの父

 娘たちの言葉が聞き取れない。年々聞き取れなくなっている。
 ポルガは人と話すことを億劫がるところがあり、自分の発言についても、自分がしゃべりたいからしゃべるのであって、相手の耳に届くかどうかはどうでもいい、みたいに思いっている節がある。そのため言葉のおしまいのほうはもちろんのこと、ひどいときには話の最初の3文字くらいしか聞き取れないときもある。しかも早口なのだ。それなのにポルガの主な話し相手である母(ファルマン)や妹は、これまでの日々で培ってきた特殊なスキルがあるものだから、それでも聞き取れてしまえる。そのためポルガのそれはいつまでも修正されない。それどころかますます増長する。僕はそこまで子どもと会話をしてこなかった父親ではないと思うけれど、それでも理解には限界があり、ましてや異性ということもあるのか、娘が話していることの内容の取れなさは、どんどん加速してきている。しかし世間の人々は、そんな僕よりもさらにポルガの言葉を聞き取る能力は低いわけで、せめて僕が防波堤となり、ポルガの「ちゃんと喋らなさ」を正していかねばならないだろうと思う。そのため聞き取れないときは、ためらうことなく「そんなんじゃ聞き取れない。もっとちゃんと喋りなさい」と注意している。しかしそうやって注意していて、たまに、「本当にポルガの言葉は世間一般から見て聞き取りにくいのか?」と疑問に思うことがある。そもそも僕は、引け目というほどではないし、健康診断とかで異常といわれたこともないけれど、子どもの頃に長く中耳炎だったこともあって、聴覚にそこまでの自信を持っているわけでもない。視力のように、1.0とか、0.2とか、そういう尺度があるとするならば、まあまあ悪いほうなのではないかな、という気がしている。そんな僕だから聞き取れないのではないか、という一抹の疑念がある。ファルマンとピイガは話を聞き返さない、というのがそれをますます搔き立てる。もしもそうだとしたら、僕は37歳にして早くも「耳が遠くなって苛々している人」ということになる。それはとても怖い想像だ。また「ましてや異性」ということを書いたが、異性でしかも世代が違うということが、話の内容はもとより、根源的な周波数的なものの違いを生んでいて、それもあって聞き取れないのではないかとも思う。もしもそうだとしたら、娘の代でそうなのだとしたら、娘たちの生む子ども、すなわち孫の世代になったら、祖父となった僕は、いよいよ言葉がぜんぜん聞き取れなくなるのではないか。そして孫の言葉がぜんぜん聞き取れないものだから、ずっと苛々している老人になるのではないか。そう考えると本当につらい。
 冒頭に「娘たち」と書いた。ここまではポルガの話である。じゃあピイガはどうなんだといえば、ピイガはしゃべるのを億劫がることはない。それどころか、起きている間はずっとしゃべっているというくらいおしゃべりである。しかもそれのボリュームがすさまじく大きい。腹から声を出し、すぐ隣にいるポルガに向かって、体育館の端から端まで届くような声でしゃべる。僕は大きい音が嫌いなので、同じ空間にずっといると、頭がどうしようもない状態になって、あえなく避難を余儀なくされる。だからこれはこれで、話を聞くことができない。
 かくして不明瞭早口と大音量という、ふり幅の大きなふたつの案件が、僕と娘たちとの会話を阻む。そうして僕はどんどん、娘たちとの会話を失っていく。なるほど娘しかいない家庭の寡黙な父親というのはこうやって醸成されていくのか、と自らの身をもって得心した。それはそうだ。どうせ成り立たないのだから、会話をする機会はどうしたって減る。これはこんなにも避けようがない、仕方のないことだったのか。