2021年4月27日火曜日

百年前日記 9

 それにしても、どうして僕がこんなにも、大人が会社でどんなことをしているのか判らないのかといえば、それはやはり友達がいないからだろうと思う。僕にはあまりにも友達がいなかった。もともと大した数がいなかったのに、集団を離れるたびにそれまでの人間関係を清算しようとする癖があり、転職や引っ越しを繰り返した結果、いよいよ僕の周りからは友達と呼べる存在がいなくなってしまったのだった。高校や大学時代の友達が多くいれば、彼らがどんな仕事をしているのか知ることで、世の中の社会の仕組みを知ることができるだろう。友達だけでなく、友達の語る友達の友達のエピソードでもいい。そういう、「人の話」によって社会への視界はクリアになる。なぜなら社会は人でできているからだ。僕にはそれがないので、社会はいつまでも覆いが掛かったままだ。それでも自分が実社会の一員でないのならなんの問題もないのだが、そんなことはない。経営状態の悪さから勤めていた縫製工場は閉鎖が決まり、ろくな資格もないまま、新型コロナで停滞する世界において再就職活動をしなければならない。現実は過酷だ。人間関係がないので、なんのコネもツテもない。
 この癖はいつから身についてしまったのか、と思う。
 他人と長く同じ時間を過ごすと、自分にも相手にも、失敗や恥の場面が生まれる。僕はそれが嫌いなのだった。だから関係が切れてその思い出が消えると、とても清々しい気持ちになった。要するにプライドの高さということかもしれない。恥部を見せることにも、見ることにも、強い拒否感がある。取り繕った状態でしか人と接したくない。これまでこれは童貞をこじらせたせいだろうと漠然と思っていたが、考えてみたら子どもの頃からこの傾向はあったように思う。
 小学校高学年の頃だったか、テレビでどこかの地方の祭りの情景を映し出され、その土地の鬼的な生き物に襲われた子どもたちが、泣き叫びながら逃げ回っていた。無様だった。
 僕はそれを眺め、
「こんな姿を大人に見られたら地元にいたくなくなるんじゃないか」
 ということを言った。すると一緒にそれを観ていた母親が、
「そんなこと言ったら子どもなんて、これよりもよっぽど恥ずかしい場面をいくらでも見られてるんだから」
 と言ったのだった。
 それを聞いて僕はとてもつらい気持ちになった。
 産まれたときには皺だらけの赤い顔で、糞尿を垂れ流し、母の乳房に吸い付き、僕は育った。人はそれを経なければ成長できない。つまり人とは恥ずかしいものなのだ。だとすれば成長してから取り繕ってもなんの意味もない。そう吹っ切れる人間と、じゃあ自分の恥ずかしい場面を知らない人しかいない世界へ行こうと考える人間がいる。ここに人それぞれの人間関係のスタンスがある。僕は完全に後者だ。しかし恥ずかしい場面を実際に見られていなくても、生きているということはすなわち恥ずかしいことをたくさん経てきたということなので、避けたところで実はあまり意味がない。その意味の乏しいことに固執した結果が、いまの孤独だ。

(プライドを持っていたら損、プライドで飯は食えない、というのはたしかに真実ではありますけど、プライドのまるでない人間ほど醜悪なものもないと思います。獣から分離して文化と自意識を持つことにした人類にとって、これは永遠の命題でしょう)

2021年4月24日土曜日

百年前日記 8

 三月の中旬ごろ、まだ人々が抱くべき絶望感のスケールを見定めることができずにいた時期、スーパーの棚から保存のきく食品が消えるということがあった。それはほんの一時期のことだったし、完全に食材が手に入らなくなったわけではなかったが、それでもお店に行ったのに食べ物が置いていないということに、すさまじい衝撃を受けた。はるか昔、狩猟で食べ物を手に入れていた時代に比べ、自分はとても安定した時代に生まれ育っていると思っていて、たしかにそれは真実ではあるのだけど、しかし結局のところスーパーへの安定供給が止まってしまったら、狩猟時代となんの違いもなく、我々は飢えてしまう。子どもに食べさせるものがなくなってしまう。
 この地面、実は薄氷なんじゃないか、と僕はそのとき悟った。

(人類の歴史とは、その薄氷をなるべく厚くする歴史であるともいえます。ただしそれはきわめて難しい。なぜならその薄氷とは、すなわち生老病死だからです。生老病死を克服するということは、生命体として存在しないということです。結局のところ我々は生きている以上、薄氷の上にしか立っていられないのだと思います)

 緊急事態宣言により人が動かないことが求められた結果、テレワークという働き方が一気に推奨されるようになった。これまでも理想論としては語られてはいたものの、一向に実現する気配はなかったのが、戦争が科学技術を躍進させるように、必要に迫られたら物事はすさまじいスピードで進展するものらしかった。
 これは実際のオフィスに出勤することなく、自宅のパソコンで仕事を行なうという働き方のことで、それが可能な職業はなるべくそうしていただきたい、と政府は要請した。
 もちろん製造業である僕にそんな話はまるで関係なく、むしろこの時期は工場として集大成となる生産がいちばん忙しい時期だった。もっとも感染の拡大というのも、東京や大阪の繁華街が中心の話で、岡山県の片田舎で人の出入りもなく作業をする人間たちにとってはどこまでも縁遠い話だった。工場の周りに駅はなく、公共の乗り物を利用して通勤する人間はひとりもいなかった。
 そのためすぐには関係のない話だったのだが、七月以降は別の仕事に就かなければならない立場からすれば、そういう社会の動向は、無関係な話ではもちろんなかった。次の就職先として、縫製業は先行きの不安から除外するとして、今度はいわゆるオフィスワーカーになりたいと思っていた。ただしオフィスワーカーとはなにか、と問われたら明確な答えは持っていない。そもそも僕は、大人が会社でどんな仕事をしているのか、いまだによく判っていないのだった。作る人と、売る人と、事務的なことをする人という、だいたいその三つくらいでありとあらゆる会社というのはできていて、じゃあいざとなったら通勤せずにパソコンだけで仕事ができてしまう人間というのは、そのうちのどれなのか。そもそもそれって本当に世界にとって必要な仕事なのか。これまで現場での労働にばかり従事していたので、そういう本当に必要なのか怪しい立場の仕事に限って、やけに報酬が高そうだという悪い印象もあった。
 テレワークの推進によってそのあたりの矜持が刺激され、パソコンで完結してしまう仕事なんて幻のようで空しいではないか、と思うようになった。仕事というのは、やっぱり実際に手掛けてなんぼのものだろう、と。

(この選択は正しいと思いますよ。コンピュータで完結できることを人間がする意味はまるでないですからね)
 

2021年4月23日金曜日

百年前日記 7

 東京オリンピックの一年延期が発表されたのもこの時期だった。どう考えても四ヶ月後に開催することなんてできないということはもっと前からみんな判っていたが、さまざまな利権問題もあって決定までに時間が掛かったようだった。
 僕は東京オリンピックそのものにはそこまで興味がなかった。自国開催を経験するのはもちろん初めてだったが、とは言え舞台は東京である。競技場も知らない所ばかりだし、時差がないことを除けば外国での開催とそう違いがあるとも思えなかった。
 それでも強いて唯一特別な感情があるとするならば、八年前の二〇一二年、ロンドンオリンピックが開催された夏、僕はそれまで勤めていた書店を退職し、七月に島根へ移住して、秋に酒造会社に就職するまでヘラヘラと暮したので、無職状態で大会を眺めた(もっとも時間はたっぷりあったはずだが、もともとの興味のなさから、そこまで眺めなかった)こととなり、本来ならば今回も二大会ぶりに、無職状態で相対するオリンピックになるはずだった。オリンピックというものに対して、そういう感慨があった。しかしその予定はあえなく頓挫した。

(そうか。まさにこのときが、あの東京オリンピックの年だったのですね。そしてこの文章が書かれた時点では、まだ実際にオリンピックがどうなったかは判っていないのですね。まあ、ちょっとあんまりな結末でしたね)

 東京オリンピックの延期が発表されて踏ん切りがついたのか、四月に入り、いよいよ緊急事態宣言なるものが政府から発令された。これは国民の活動をとにかく小さくし、交流を減らすことによって感染の拡大を止めることを目的にした施策で、これまでの日々で十分に判ってはいたが、やっぱり今って後世に残る緊急事態なのだな、ということをこの宣言によって改めて強く実感した。
 おとなしく家にいることが奨励され、そこから逸脱した行動を取った人間は、実際にウイルスに感染したかどうかは関係なく糾弾された。自粛警察という言葉が生まれ、彼らの取り締まりは苛烈だった。この現象に対して、八〇年ほど前の、太平洋戦争へとなだれ込む軍国主義時代のことを想起しない人間がいただろうか。国への隷従が強要され、一億総火の玉を合言葉に突き進み、命を惜しんで反戦の素振りを見せようものなら非国民として吊し上げられたというあの時代。もちろん反戦が理念であるのに対し、伝染病が蔓延しているのに不用意な行動を取ることは理念でもなんでもない。ある程度の批判はされてしかるべきである。それでも僕がショックだと思ったのは、市民による相互監視の雰囲気というのは、こうも簡単に、日常生活から地続きで形成されるのかという、そのことだった。
 日常とは思っていたよりもはるかに脆いものなのだと、新型コロナウイルスによって僕は悟った。

2021年4月22日木曜日

百年前日記 6

 作るとなったら、資材を買いに行かねばならない。妻が使ったように、家には資材があったといえばあったのだけど、それは決して布マスクを作るために買ったものではなかった。布マスクを作るには、そのための生地を買わなければならない。そしてそうやって目的買いしたものは、完全に使い切るわけではないので、結果的に家には資材がどんどん増えることとなる。これまではそのことに対していくらか自制心も働いていたのだが、最近では娘たちが手芸をしたりするようになってきたため、娘が使うかもしれないし……、という言い訳が立つようになって、いよいよ歯止めがかからなくなった。
 そんなわけで赴いた手芸屋だったのだけど、普段と様子が違っていた。まず駐車場が空いていない。こんなことは初めてだった。それでもなんとか車を停めて入店すると、店内は大勢のおばさんたちで殺気立っていた。僕も含めて、ここにいる人たちはみな、布マスクの資材を買いに来ているらしかった。三月下旬、どの家でもインフルエンザ用に昨年末あたりに買っておいたマスクの残量が心許なくなり、しかしながら不織布マスクの店頭価格は法外で、布マスク作りへの重い腰を上げるタイミングなのであった。
 普段は手芸屋に来ないような層も多くいるようで、店員に質問をしたいが、感染対策として店員に質問するのは控えてくれとポスターで告知されているし、そもそも店員はみな大行列の裁断やレジ業務でそれどころではない。その結果として、店内にはフラストレーションが横溢していた。
 これは後日、この当時よりはいくらか落ち着いた時期に手芸屋に行ったときのことだが、接着芯の売り場に、これまでにはなかった「これは接着芯です!」という注意が掲示されていた。どういうことかというと、たぶん薄手の接着芯をガーゼと誤解して買った者がいたのだろう。その手芸初心者のことを思うと、胸が痛む。なんとか材料を買い揃え、慣れないミシンをして、いよいよ完成という段階で、アイロンをかけたらくっついてしまったのだ。接着が溶けて裏表の生地がくっついたマスクは、その接着芯本来の機能性ゆえ、呼吸がままならなかったことだろう。切なすぎる。
 斯様な手芸屋狂騒の風景もまた、戦中戦後らしい感じがあったし、さらに遡って文明開化の時代のようでもあった。誰もが手探りで、受け入れることにしたものと受け入れないことにしたものを取捨選択していた。「新しい生活様式」というフレーズが唱えられはじめるのはここからもう少しだけ先だが、いまから約一五〇年前、江戸から明治へと時代が移り変わるときの人々の気持ちが、少しだけ解ったような気がした。

(結局のところ、人間という生き物そのものは、ライオンやウサギが変わらないように、いつの時代も変わっていないということでしょう。文明の進歩やそれに見合う社会常識は、体にまとわりついている程度のもので、文明開化や戦争やパンデミックといった強い風が吹くと、簡単に吹き飛んでしまうのだと思います)

 そんな狂乱の手芸屋で、僕はなんとかマスクの資材を手に入れた。ダブルガーゼは棚にはなく、裁断場でひとり一メートルに限っての販売だった。配給のようだ、とやはりそんなことを思った。
 そうして満を持して作ったマスクは、すばらしい出来映えだった。マスクそのものは、ウェブ上に作り方が公開されていたオーソドックスなプリーツ型なのだが、なんといっても表地のセレクトがよかった。五種類ほど選んだのだが、どれもかなり派手でありながら品もあり、さすがだ、さすがは僕だ、と思った。家にあったガーゼ生地も使い、三〇枚ほど作れたので、自分たち一家で使うほか、両方の実家にも送ってやった。それに対して「助かる! すごくいいね!」という反応が返ってくるのは当然のことなので当てにはならないが、作ったものを職場に着けていったら、同僚のおばさんたちから大絶賛を浴びたので、やはり傑出した仕上がりだったことは間違いなかった。
 実はこの春先から、ウェブ上でハンドメイド作品を販売するサイトに登録をしていて、オリジナルキャラクターをアイロンプリントでバッグにデザインしたものなどを出品していたのだが、そこで布マスクも出品したらどうだろうかと一瞬考えた。でも実行には移さなかった。布マスクの出品は禁止ではなかったのだが、いちおう衛生関係なので無責任に販売していいものかという思いがあったのと、あとはなにより、この時期にマスクで金儲けを目論んだら駄目だろうと思ったのだった。不織布マスクの高値販売にあぐねて布マスクを作ったのに、布マスクで商売をはじめたらミイラ取りがミイラそのままである。
 加えてこの数週間前に、山梨県の女子中学生が新型コロナウイルスの流行を受け、貯めていたお小遣いで資材を購入して大量の布マスクを作り、すべて福祉施設に寄付したというニュースがあったので、そのことを思ってもやはり販売はためらわれた。
 もっとも世の中は布マスクの販売が大ブームで、いろんなお店のレジ横に、お店の人が作ったのだろう布マスクが売られていた。衛生観念や倫理観などはなぎ倒し、新しく着けなければならなくなったこの装飾具をみんなで愉しもうじゃないかという、商売人のたくましさを見た。これは正しいことだ。コロナ禍を通して、経済を回すことの大切さを思い知った。しかし一方で山梨の女子中学生の行動もまた、もちろん正しい。
 マスクで儲けるのはいかがなものかと逡巡するだけだった僕ばかりが、正しくなかった。

2021年4月16日金曜日

百年前日記 5

  仕事は快適だった。どうせ先のない、あとは去年の時点で受注してしまった注文分を生産するだけ、という状態になった工場には緩んだ空気が流れ、居心地がよかった。
 あまりにもよすぎたのだと、このことはあとになって痛感することとなる。
 この時期、世の中で新型コロナウイルス対策としてマスクが店頭から消えるという出来事が起った。
 この騒ぎが起る前は五〇枚入りで五〇〇円を切っていた不織布のマスクが、三〇〇〇円だの四〇〇〇円だのという高値で売られるようになった。希少価値が高まれば値段が高くなるのも当然、というのが売り手側の主張で、われわれ消費者は、お前らこの機会にぼろ儲けしようとしてるんだろうと思いつつも、必要に迫られれば買うほかなかった。戦後の闇市のエピソードを聞いて抱くのと同じような気持ちを、現実で抱くはめになり、ああいまはそれくらいに非常時なのだ、と改めて感じた。

(ここでいう戦後とは、第二次世界大戦のことですね。原子爆弾が兵器として使用された、人類史上唯一の戦争)

 不織布マスクは紙でできた使い捨てのマスクという認識だったのが、実は名前でもちゃんといっているように、特殊な布でできていて、洗濯もできないことはない、という蒙が啓かれたのもこの時期だった。しかし実際にやってみたら、パラソルハンガーに洗濯バサミでぶら提げられた不織布マスクの情景は、やけに自分たちが侘しいことをしているような気持ちになり、定着しなかった。
 そのような状況に、妻がある日、布マスク作りに着手した。妻は編み物はするが縫製方面はからっきしの人間である。針と糸はもちろんのこと、ミシンだって普段は触ろうともしない。それでも娘たちの着けるマスクがなくなることを憂えて母の大いなる愛が発動したのである。
 幸いなことに、資材は家に揃っていた。表面となる綿の生地はもちろんのこと、裏面のガーゼは娘たちが赤ん坊の頃にスタイなどを作るために買ったのが残っていたし、ゴムもまた娘たちの体育帽子の紐を付け替えるとき用の細いものがあった。常日頃から、手芸に関するストック物品が多すぎると大いに文句をいわれていたが、このような非常時にあって、ストックというのは大事なのだということを悟った。
 僕が労働を終えて家に帰ったときには、妻の布マスク作りは佳境に入っていて、それは惨憺たるありさまだった。
「あとはマスクの端にゴムを通すだけだからお願い」
 と妻はいったが、この作品のクレジットに僕の名前が載るのは勘弁してほしいと思った。
 それで仕方なく、ほどくべき部分をほどき、アイロンの段階からやり直すことにした。ものによってはそれでもどうともならず、裁断の段階からやり直した。長方形に切ればいいプリーツ型マスクの裁断が、どうしてこうもズレるのか、裁ちばさみではなく石ででも切ったのか、と思った。
 かくして初めての布マスクはなんとか完成したのだけど、やはりまるで満足のいく出来ではなかった。俺が最初からやっていればこんなことにはならなかったと僕は深く反省し、自分の手でちゃんとしたものを作ることにした。妻の作った布マスクは、実用性はまるでなかったけれど、僕をその気にさせるという着火剤の役目を果たした。

2021年4月14日水曜日

百年前日記 4

  新型コロナウイルスはそういった、惰性でなんとなく在り続けたが、実はなんの意味もなかったことを、この世界から取っ払うという働きをした。ウイルスはただ災厄であり、功罪などといっては語弊があるけれど、人類がそれまでよりもいくらか研ぎ澄まされたことは間違いない。単に余裕がなくなって殺伐としただけ、ともいえるけれど。
 それが最も顕著に表れたのはやはり経済方面で、人々の活動が規制されたことで経済が回らなくなり、余裕をなくした企業は、いらない人員を切った。いらない人員を切らなかった企業は、全体が斃れた。
 世の中には雇用への不安が横溢していた。
 そんな状況の中で、六月末での退職が決定している我が身は、ある種の無敵状態だと感じていた。新型コロナウイルスの影響で会社の経営が傾いて路頭に迷うことになるのではないかという、一般的な勤め人なら少なからず抱いただろうそんな漠然とした不安から、僕は完全に解放されていた。
 このような心の作用は両親の離婚のとき以来だな、と思った。
 僕の両親は僕が小学二年生の頃に離婚した。父が不倫相手との間に子どもを作ったのがその決定打だったようだが、その前から夫婦の関係は冷え込んでいたに違いない。子どもの僕は自然とその空気を感じ取っていて、僕は物心がついた頃からずっと、両親は離婚しないだろうか、という不安を抱えていた。でもこういう不安は大抵の子どもが抱いているもので、我が家の場合はそれがたまたま的中してしまったパターンなのだと思っていたが、のちに妻にこの話をしてみたところ、妻は子どもの頃に両親の離婚を心配したことなどいちどもなかったというので驚いた。
 そうして両親の離婚が成立し、父が家からいなくなったら、ものを思うようになってからずっと頭の中にあった不安が、現実のものになってしまったという形ではあったにせよ解決し、きれいに消え去ったので、見通しのよさに驚いた。あの不安がないということは、こんなにも清々しく晴れやかなことなのか、と思った。
 もっとも漠然とした不安がないだけで、母子家庭という境遇が発生してしまったのと同じように、六月末をもっての無職は決定しているのである。だが決定していない宙ぶらりんの状態よりも、それがいくらか悪いことであろうとも、決定しているほうがよほどいい。無駄にあれこれと思いを巡らさずに済むからだ。

(さまざまなことに思いを巡らせることは、悪いことではないと思います。私たちの時代は、考えようと思わなければ、どこまでも考えなくて済むようになっているので、わざと考え事をしたりしますが、ときどき無性に阿呆らしくなります)

 そのため世間の陰鬱さに対して、春先の僕はわりとご機嫌に過ごした。

2021年4月10日土曜日

百年前日記 3

 ただしこのときの提案は素直に受け入れることにした。インターネットで、就職に有利な資格というキーワードで検索をする。すると待ってましたと言わんばかりの体裁の整ったサイトが次々に出てきて、さまざまな資格が紹介された。しかし簿記もファイナンシャルプランナーも宅建士も、あまり自分と結びつく気がしなかった。
 そもそも僕は、縫製業に見切りを付けて、じゃあそれからなにをするか、なんの考えもなかったのである。
 そのためしばらく吟味した結果、まあこれならば職種を限定せずに広く通用するだろうと、TOEICの勉強をすることにした。語学ということで、他のものよりはいくらか興味も抱けるだろうと思った。

(いったいなんだろうと思って調べたら、ビジネス英語の試験とのこと。なるほど、この頃にはまだ言葉の壁なんてものが存在したわけですね。話し相手がぜんぜん理解できない言葉で喋るだなんて、想像がつきません。そんなの不便すぎるじゃないですか)

 しかし即座に事の顛末を明かしてしまうが、結果として僕はTOEICの試験を受けずに終わった。勉強は、テキストを買ったりアプリを利用したりして、一時期それなりにやったのだが、新型コロナウイルスの影響により、この春からしばらく検定試験そのものが開催されなかったのである。なんともやるせない結末ではないか。
 新型コロナウイルスの流行はそれほどに加速していて、二月の終わりには政府の方針により一斉休校が要請され、娘たちが小学校と幼稚園に行けなくなってしまった。上の子は三年生なので特別どうということはないが、下の子に関しては幼稚園の年長である。すなわちこの春は、卒園と入学の春だったのだ。
 もっとも休校に伴う我が家の葛藤はその程度のもので、世の中の共働き世帯にとっては、子どもたちを家に残して出勤しなければならないということで、大変由々しき事態であったらしい。政府はこれまで女性活躍と銘打って、専業主婦という存在をなるべくこの世から抹殺せんと施策を次々と繰り出していたが、いざとなったら「家には母親がいる」という固定観念があったことが判明したので、むちゃくちゃな話ではないかと思った。

(政府のすることというのは、どの時代でもむちゃくちゃなのですね。時代が違うといろいろなことが様変わりするなあとここまでの文章を読んで感じていましたが、そこだけは不変なのですね。不思議なことです)

 結局、下の子の卒園式と入園式は、なんとか執り行なわれた。参列者は両親のみ、来賓なども一切なしの簡潔なものだったが、かえってよかったという声が多く聞かれた。地元の名士なのかなんなのか知らないが、来賓などという得体の知れない存在は、本当にただの無駄だったのだなと、自分の学生時代のことも含めてしみじみと思った。 

2021年4月8日木曜日

百年前日記 2

 かくして約五ヶ月後、六月いっぱいでの退職が決定したのだった。
 この五ヶ月後というのが曲者だった。これが一ヶ月後であれば心置きなく大騒ぎできるのだが、五ヶ月後のことに今から右往左往することもできず、明日からも納期に追われる生産は続くわけで、えらいことになったという思いは抱えつつも、工員たちはわりと淡々としていた。
 僕自身は宣告をどう受け止めていたかというと、実はかなり華やいだ気持ちになっていた。実はちょうど、このままここで縫製工を続けていても、あまりいい未来は待っていないような気がして、悩んでいたところだった。かといって自発的に転職するほどの熱情もなかったため、身動きが取れずにいた。だからこれはチャンスだと思った。
 実は三年前にも、この縫製工場は身売りを経験していた。もともとは工場はひとつの会社で、そこには社長と呼ばれる人もいた。その経営が立ち行かなくなって、今回われわれを見放すことにした大きな会社に買われたのだった。その際、工員としては勤務する会社が替わるわけで、新しい会社に入社しますかしませんか、という意思調査がなされた。このとき後者を選んでいたら、会社都合の退職ということになり、違う未来があったかもしれないという思いが、この三年間ずっと心の中でくすぶっていた。

(縫製業のことはぜんぜん詳しくないですけど、今だってもちろんファッションブランドはありますし、どうすればいい着こなしになるかは若者にとって大きなテーマです。ただしよほどの伝統工芸品みたいなハイブランドでない限り、あまり衣類を人間が作ってるイメージはありませんね)

 だから今度のチャンスは逃すまいと思った。工場としては、ふたたびどこかの会社が工場を買ってくれることを期待しているようだったが、もしも三年前と同じ状況になったら今度は入社しない選択をしようと僕は心に決めた。
 そのような意識だったので、妻に工場の閉鎖を告げるときも、僕はまるで悲愴なムードを出さなかった。
「えええ」
 と妻はまず驚きの声を上げたが、最近の僕が今の勤めに不満を抱いていたことを、妻はもちろん愚痴という形で聞かされていたため、「まあたしかに逆によかったかもね」と前向きに受け入れてくれた。
 そして、
「無職まで五ヶ月間もあるのなら、この間になにか資格の勉強でもしたら?」という提案もしてきた。
 思えばどこまでも現実的でまっとうな提言である。
 妻という人間は、どんなときも正しいことを言う。だから妻の言うことをひたむきに聞いていれば、人間として大きく道から外れるということは決してないのである。しかしなかなか僕が、ひたむきに聞くということができないがために、ことはそううまく運ばない。この点に関しては、夫として申し訳なさしかない。

2021年4月7日水曜日

百年前日記 1

 思い返してみると、工場の閉鎖を告げた本社の役員は、マスクを着けていなかった。
 一月下旬、たしかにあの当時はまだ、マスクは必須のものではなかった。囁かれはじめた新型コロナウイルスの蔓延は、あくまでも対岸の出来事であり、数年前にその状態のまま収束したSARSやMARSといった伝染病と同じように、今回もどうせ解決するのだろうという認識だった。
 工員を、狭い会議室に入れる人数分だけ呼び出して伝えていくというスタイルは、のちの時代から見れば絵に描いたような三密であり、それでマスクを着けないなんてことはあり得ない。しかしそれまでの世界の価値観では、大事な内容のことを伝えるときにマスクを着けていることこそ、誠意の表明としてあり得ないことだったのだ。
 だから無数の工員の目に囲まれながらそのことを宣告する、役員の後ろめたそうな顔を、僕はきちんと見た。
 以前の世界では、こんな表情も、きちんと外界にさらさなければならなかったのだ。
 ちょっと人として生々しすぎないか、と今の僕ならば思う。

(私もそう思います。というより、この年からはじまったその感覚が、今も続いているのかもしれません)

 経営不振のために地方の工場を切るという本社の決定、そこに感情の入り込む隙はないが、しかしそれを工員に伝えにくる人間はその限りではない。この役員の立場になって想像すれば、あまりに過酷な役回りだ。こんなにも希望のない出張もそうそうないだろう。
 すべての工員に伝えるために、十数人ずつ、五回ぐらいに分けてこの宣告の儀はなされたはずで、そのたびに会議室の空気は張りつめ、乱れ、沈んだことだろう。どういう順序だったのかは知る由もないが、僕はたぶん四番目の回だった。そのためすでに三度のそれを経た役員の顔は、すっかり土のような色になっていた。
 この役員を、僕はそれまでに二度見たことがあった。本社の役員が来るからと、みんなで工場内を念入りに掃除して出迎えた。そのときの役員は、ちゃんと本社の役員らしく、傲岸な雰囲気をまとっていた。君たちの生殺与奪は私次第なのだから、私にちゃんといい印象を持たれるように励みたまえよ、というプレッシャーを放っていた。結局そのプレッシャーにわれわれの工場は応えることができなかったわけで、そう考えたら彼はこの段になっても別に堂々としていてもよかったような気もしてくるが、要するにきっと、悪い人じゃなかったんだろう。そして、だからこの役回りをするはめになったのだと思う。

(昔の人たちは、家族でもない相手に、そんなに感情をあらわにして生きていたんですね。野性的だなあ)

 かくして約五ヶ月後、六月いっぱいでの退職が決定したのだった。