東京オリンピックの一年延期が発表されたのもこの時期だった。どう考えても四ヶ月後に開催することなんてできないということはもっと前からみんな判っていたが、さまざまな利権問題もあって決定までに時間が掛かったようだった。
僕は東京オリンピックそのものにはそこまで興味がなかった。自国開催を経験するのはもちろん初めてだったが、とは言え舞台は東京である。競技場も知らない所ばかりだし、時差がないことを除けば外国での開催とそう違いがあるとも思えなかった。
それでも強いて唯一特別な感情があるとするならば、八年前の二〇一二年、ロンドンオリンピックが開催された夏、僕はそれまで勤めていた書店を退職し、七月に島根へ移住して、秋に酒造会社に就職するまでヘラヘラと暮したので、無職状態で大会を眺めた(もっとも時間はたっぷりあったはずだが、もともとの興味のなさから、そこまで眺めなかった)こととなり、本来ならば今回も二大会ぶりに、無職状態で相対するオリンピックになるはずだった。オリンピックというものに対して、そういう感慨があった。しかしその予定はあえなく頓挫した。
(そうか。まさにこのときが、あの東京オリンピックの年だったのですね。そしてこの文章が書かれた時点では、まだ実際にオリンピックがどうなったかは判っていないのですね。まあ、ちょっとあんまりな結末でしたね)
東京オリンピックの延期が発表されて踏ん切りがついたのか、四月に入り、いよいよ緊急事態宣言なるものが政府から発令された。これは国民の活動をとにかく小さくし、交流を減らすことによって感染の拡大を止めることを目的にした施策で、これまでの日々で十分に判ってはいたが、やっぱり今って後世に残る緊急事態なのだな、ということをこの宣言によって改めて強く実感した。
おとなしく家にいることが奨励され、そこから逸脱した行動を取った人間は、実際にウイルスに感染したかどうかは関係なく糾弾された。自粛警察という言葉が生まれ、彼らの取り締まりは苛烈だった。この現象に対して、八〇年ほど前の、太平洋戦争へとなだれ込む軍国主義時代のことを想起しない人間がいただろうか。国への隷従が強要され、一億総火の玉を合言葉に突き進み、命を惜しんで反戦の素振りを見せようものなら非国民として吊し上げられたというあの時代。もちろん反戦が理念であるのに対し、伝染病が蔓延しているのに不用意な行動を取ることは理念でもなんでもない。ある程度の批判はされてしかるべきである。それでも僕がショックだと思ったのは、市民による相互監視の雰囲気というのは、こうも簡単に、日常生活から地続きで形成されるのかという、そのことだった。
日常とは思っていたよりもはるかに脆いものなのだと、新型コロナウイルスによって僕は悟った。