2021年4月14日水曜日

百年前日記 4

  新型コロナウイルスはそういった、惰性でなんとなく在り続けたが、実はなんの意味もなかったことを、この世界から取っ払うという働きをした。ウイルスはただ災厄であり、功罪などといっては語弊があるけれど、人類がそれまでよりもいくらか研ぎ澄まされたことは間違いない。単に余裕がなくなって殺伐としただけ、ともいえるけれど。
 それが最も顕著に表れたのはやはり経済方面で、人々の活動が規制されたことで経済が回らなくなり、余裕をなくした企業は、いらない人員を切った。いらない人員を切らなかった企業は、全体が斃れた。
 世の中には雇用への不安が横溢していた。
 そんな状況の中で、六月末での退職が決定している我が身は、ある種の無敵状態だと感じていた。新型コロナウイルスの影響で会社の経営が傾いて路頭に迷うことになるのではないかという、一般的な勤め人なら少なからず抱いただろうそんな漠然とした不安から、僕は完全に解放されていた。
 このような心の作用は両親の離婚のとき以来だな、と思った。
 僕の両親は僕が小学二年生の頃に離婚した。父が不倫相手との間に子どもを作ったのがその決定打だったようだが、その前から夫婦の関係は冷え込んでいたに違いない。子どもの僕は自然とその空気を感じ取っていて、僕は物心がついた頃からずっと、両親は離婚しないだろうか、という不安を抱えていた。でもこういう不安は大抵の子どもが抱いているもので、我が家の場合はそれがたまたま的中してしまったパターンなのだと思っていたが、のちに妻にこの話をしてみたところ、妻は子どもの頃に両親の離婚を心配したことなどいちどもなかったというので驚いた。
 そうして両親の離婚が成立し、父が家からいなくなったら、ものを思うようになってからずっと頭の中にあった不安が、現実のものになってしまったという形ではあったにせよ解決し、きれいに消え去ったので、見通しのよさに驚いた。あの不安がないということは、こんなにも清々しく晴れやかなことなのか、と思った。
 もっとも漠然とした不安がないだけで、母子家庭という境遇が発生してしまったのと同じように、六月末をもっての無職は決定しているのである。だが決定していない宙ぶらりんの状態よりも、それがいくらか悪いことであろうとも、決定しているほうがよほどいい。無駄にあれこれと思いを巡らさずに済むからだ。

(さまざまなことに思いを巡らせることは、悪いことではないと思います。私たちの時代は、考えようと思わなければ、どこまでも考えなくて済むようになっているので、わざと考え事をしたりしますが、ときどき無性に阿呆らしくなります)

 そのため世間の陰鬱さに対して、春先の僕はわりとご機嫌に過ごした。