2024年2月17日土曜日

百年前日記 25

 そのあと僕はふたつの縫製会社の面接を受けた。
 ひとつはこれまでとはだいぶ毛色の違う、すなわちくたびれていない所で、縫製だけをやっているわけではないが、オリジナルのブランドを持ち、10名ほどの縫製工を擁する縫製工場(こうば)は、前年あたりに新設されたばかりという、なんだかイケイケな会社だった。面接を受けに行くと、少しギャルっぽさのある若い女性に案内され、面接官として現れた男は湘南乃風のようだった。いま冷静に考えたら、その職場はお前には合わないだろ、と断言できるのだが、当時の、くたびれた感じの縫製工場に6年いて、そのあと同じような縫製工場の面接を受けたらそこにはかつての同僚もいてウンザリ、なんてことがあった僕には、コンクリート打ちっ放しの、美容室のような新しく小ぎれいな場所で、10人くらいの縫製工で日々さまざまなものを縫うという、これまでとはだいぶ異なる世界に、魅力を感じてしまったのだった。採用されればいいなあ、と切に思った。
 その結果が出る前に、もうひとつ別の会社にも面接を受けに行った。こちらはくたびれているほうの縫製工場で、ここに入社したら、前までとほぼ変わらないような感覚で働けそうだなあ、という感想を持った。それはいいことのようにも、悪いことのようにも思えた。面接官はわりと若い感じの気さくな男性ふたりで、楽に話せた。縫製工場に勤めていた経験から、向こうが欲しい答えをズバズバ出せている感触があり、手ごたえがあった。採用されることはまず間違いないが、ふたつの会社を並行して受けているため、結果の通知の順番が問題だな、と思った。
 そのときの気持ちとしては、先に面接を受けた小ぎれいなほうで働ければどんなにいいだろう、という思いだったが、こちらは結果の見通しがつかなかった。後者は採用の連絡が来るのは目に見えていたが、それが先に来てしまった場合、どう返事をすればいいか悩ましかった。いちばん参るのは、前者に心を決めてしまい、後者の採用通知を断ったあと、前者から不採用の通知が来る場合だ。別に僕は、後者の会社で絶対に働きたくないわけでは決してないのだ。ただ前者の会社に強い魅力を感じてしまっているから、そこに葛藤が生まれるのだった。
 さてどうしたものかなあ、と困っていたら、後者の会社から郵送で、不採用通知と履歴書が送られてきた。これにはとてもびっくりした。狐につままれた気分とはこのことか、と思った。妻からは、「面接がすごく話しやすくて盛り上がったって言ってたから、怪しいなって思ってたよ」と言われた。案外そういうパターンもあるらしい。人間怖い。
 しかしこの数日後、前者の会社から採用の通知が来たので、心の底から安堵した。フラれた憤りもあり、あー、あそこから採用の連絡が来なくてよかった、と思った。
 かくして僕は10月より、ふたたび縫製工場に勤め始めることになった。6月以来と考えれば、なんのことはない、僕の縫製工としてのブランクは、まだ3ヶ月でしかなかった。化学工場に勤めた半月間が、早くも幻のように思えた。途中でいちど奇異な夢を見たが、縫製の仕事をしに移住して来た岡山で、会社こそ変わったが僕の縫製工としての日々は続いてゆくのだな、と思った。
 しかしこの会社での日々は、またすぐに終わることとなる。そしてそれは、僕の岡山での縫製工としての日々の、完全なる終了を意味するのだった。

2023年2月24日金曜日

百年前日記 24

 最初に面接を申し込んだ会社は、これまで勤めていたところよりもひと回り規模の大きそうな縫製工場だった。岡山県南部には児島という、国産デニムという分野において名の知れた地域があり、大小合わせるとかなりの数の縫製会社が集まっている。受けたのはそのうちのひとつだ。そもそも6年前にわれわれが島根から岡山に移住したのも、岡山は縫製業が盛ん、というイメージがあったからに他ならない。そうなのだ、先月は謎の寄り道をしてしまったけれど、岡山に住んで縫製以外の仕事をする道理が、僕にはまるでないのだった。
 訪問すると、会社はかなり古びていたが、通された社屋の応接間はこぎれいだった。事務系の女性がおっとりした雰囲気の人で、僕のペンケースを見て、「あら、それ手作り?」と語りかけてきた。僕は祖母の作ったペンケースを、そこまで気に入っているわけでもないが、なんとなく何年も使い続けていた。
 やがてふたりの男性が現れて、それが社長と専務だった。最初の対面でいきなり社長と専務が現れるのだから、前の会社よりも規模が大きいと言ったって程度が知れているだろう。創業者ではないようで、ふたりともそこまで高齢ではなかった。
 話してみると、感じは悪くなかった。しかし募集要項には縫製工場にまつわる各種の仕事がとりあえずといったふうに列記されていたのだが、どうも話によると、僕が採用ということになった場合、デニムにワッシャー加工を施す部署に配属されるようで、その作業というのは、縫製会社が行なう作業の一工程という意味では縫製業と言えるのかもしれなかったが、少なくとも僕のイメージするそれではなかった。やっぱりどうせならミシンが踏みたかった。しかしミシンオペレーターという役割は、前の会社でもそうであったように、基本的には女性の仕事なのだった。男はそれを管理したり、あるいは裁断やプレスなどの加工をする、というのがよくあるパターンで、この会社もつまりそのパターンらしかった。
 そのため面接の途中ですっかり心の中は冷えていたが、このあとに社長の口から出た言葉で、それは決定的なものとなった。
「そういえばT縫製と言えば、O君も来てるよ」
 T縫製とは僕がもともといた会社で、Oはそのプレス場にいた、少し年上の男の名前だった。特別仲がよかったわけでもないが、同じ日本酒党として、飲み会の際には隣り合うことも少なくなかった。工場閉鎖後、彼はここに流れ着いていたのだった。同じエリアの同じ業界なのだから、こんなことは十分にあり得ることに違いなかったが、なぜかそれを聞いた瞬間、僕はやけにショックを受けてしまった。Oは高卒でそのままT縫製に入ったのか、年はそれほど僕と離れていないのに、会社ではかなりのベテランだった。そんな彼の、新しく入った会社での姿を見たくはなかった。彼はそこまで要領のいいタイプの人間ではなかった。それでも長年ひとつの会社にいたことで、なんとかポジションを確保していたのだと思う。それがない状況で居心地悪そうにしている彼を見たくなかった。彼も見られたくないだろうと思った。
 それになにより、僕は彼も含めた男性社員の集いで、工場閉鎖後の身の振り方について雑談をしていた際、堂々と宣言してしまったのだ。「もう縫製業はやらない」と。
 面接から数日後、電話がかかってきて、採用が告げられたが、僕は丁重に断った。

2022年5月29日日曜日

百年前日記 23

 工場で黙々と働くのが向いているのではないかと思い選んだ化学工場はあまりにも異世界で、当世流行りの異世界物の主人公になったかと思った。ライトノベルと異なり、職場には男しかいなかったのだけど。異世界の人々は、タンクの中身の分量をいうときに、「リューベ」という単位を使った。生まれて初めて耳にしたそれは、すぐには意味が分からなかったが、状況や知識から複合的に類推して、平面の平米に対しての立体の立米のことだ、と理解した。すごい理解力ではないか。そんな、これまであまりにも縁のなかった言葉、単位、概念に対して。しかし言葉は理解したが、リューベでものを考えなければならない世界観に馴染むことはどうしてもできないだろうと思った。気持ち的にではなく、能力的にだ。
 縫製工場と化学工場は、同じ工場という名称を用いながら、実はぜんぜん別のものだった。それはそうだ。縫製工場で働いていたから化学工場でも働けるだろうなどと、どうして思ってしまったのか。
 幸いにもすぐに支給が再開された雇用保険だったが、残りのうちの70%を先行して受け取ったこともあり、残りの日数はそう多くない。今回は当然ながら前回のように悠長には構えられないし、なにより無職の日々はもうたくさんだった。
 僕はすぐに次の就職活動を始め、そしてそれは業種として、縫製会社に絞って行なったのだった。6年間の経験を踏まえ、縫製会社を除外して再就職活動を行なったが、その結果がさんざんなものになり、やっぱり自分は縫製しかできないんじゃないか、そもそもほぼ身寄りのない岡山に移住したのは縫製業が盛んだからであって、だとすれば岡山に住みながら縫製業以外のことをするのって、あまりにも意味不明なんじゃないか、などということをいまさらながら痛感し、やはり縫製業に回帰する決意をしたのだった。
 そう決めてからは、気持ちがだいぶ楽になった。履歴書にしろ面接にしろ、縫製業ならば転職活動として無理がなかった。前に勤めていた縫製工場が閉鎖したので再就職先を探しております。それで済むからだ。ただしなまじっか業界のことを知っているがゆえに、懸念点もあった。国内での縫製業が斜陽産業であり、給与は基本的に低いなどということは、僕も妻もすでに重々分かっていたが、縫製工を「ミシンオペレーター」と称し、ミシンの拡張した機能かのように、人格も与えずに無茶な勤務体系で働かせるような、そういう会社は嫌だと思った。前の会社はそこまで悪辣ではなかったが、嫌気が差す場面ももちろんあった。
 岡山において縫製業は、さすがのものでコロナ禍においても募集はそれなりにあった。その選択肢の中で、いちおう僕だって経験者であり、働けさえすればなんでもいいという弱い立場でもないので、面接でしっかりと会社を見定め、就職先を決めようと思った。
 そんな状況で、僕は37歳の誕生日を迎えたのだった。

(おめでとうございます!)
 

2022年3月15日火曜日

百年前日記 22

 化学工場は異様な場所だった。面接では事務所しか見なかったため、初出勤で工場内部を案内され、そのこれまで自分の生きてきた世界とはあまりにもかけ離れた世界に、ただひたすらに衝撃を受けた。工場は広く、古く、入り組んでいて、好きな人にとってはたまらなく好きな世界なのだろうと思った。僕はただ戸惑っていた。
 結果を先に言ってしまえば、僕はこの工場を2週間で辞めた。
 なにか決定的に嫌な出来事があったわけではなかったが、とにかく違和感がすさまじかった。全身淡い緑色の制服を着た理系の青年たち(平均年齢はたぶん僕の年齢よりも低かった)が、pHだの塩分濃度だの次亜塩素水だのという話をする空間は、あんまりにも僕の居場所ではなかった。そんなことは応募前にもう少し想像力を働かせれば分かったはずである。だからこれは一方的に僕が悪い。退職を申し出ると、特殊な職場なので辞める人はすぐに辞めるのだ、と向こうは慣れた反応だった。
 辞めたあとには、耐油性の長靴と、汚れた制服を持って帰る目的で購入した防臭機能付きの袋と、そして入社3日目あたりに購入した1ヶ月分の定期券が残された。定期は、岡山駅乗り換えで2路線を利用するため、けっこうな値段がした。それはそもそも会社規定の交通費の上限を超える額だったのだが、少し足が出ても電車通勤がいいと思ったし、なにより岡山駅を利用できるなら十分に使いでがあるだろうと目論んで購入したのだった。実際には、勤めていた2週間の中で改札外に出て岡山の街に繰り出したりしなかったのはもちろん(精神的にも肉体的にもそんな余裕はなかった)、そこからの再びの無職期間中もまるで使わなかった。岡山の街に行くということはすなわち商業施設に行くということなので、無職ではなかなかそんな気も起らないのだった。
 しかし転職はあまりのミスマッチで失敗だったが、2週間と素早く判断したことにより、傷は浅く済んだと言えた。履歴書に書く経歴にもならないので、今回の就職は、「なかったこと」にすることができた。後日、離職票が届いたのでハローワークに行って手続きをしたところ、僕はまだ自己都合退職者ではなく、会社都合退職の効能が残っている身分であると伝えられた。どういうことかといえば、会社都合退職によりもらえるはずだった180日分の雇用保険を、僕は55日分くらいもらって再就職し、それは全体の3分の2以上を残しての終了であったため、残りの125日間でもらえるはずだった雇用保険の、70%の金額が一気にもらえたのだけど、だとすればあと30%は原資として残っていることとなる。この30%分を、これからまた無職期間中は、日々受給できるのだそうで、だとすれば僕はこれ、もちろんそんな意図はなかったのだけど、本当は180日間かけて受け取る金額を、ちょっとワープして短期間で受け取れるという、そんな裏技を使った形になるんじゃないかと思った。
 かくして僕はふたたび無職になった。

2021年11月11日木曜日

百年前日記 21

  夏の終わりに、コロナ禍の中、せめてものレジャーとして家族で洞窟に行った。新見市なので、岡山県のまあまあ北部ということになる。井倉洞という洞窟である。その数日前にローカルのテレビ番組で紹介されているのを見て、洞窟なので内部はひんやり、という文句に誘われて行くことにしたのだが、ひんやりしているのは洞窟内だけなので、陽射しが照りつけてエアコンが追いつかない車中や、駐車場から洞窟までの行き来で、結局暑さにやられた。新見市に至る途中には高梁市があり、この日もまさにその最中にあったのだが、この二〇二〇年の八月に、高梁市は猛暑日連続の日本記録を更新したのだった。これは二十六年ぶりの更新だったそうで、けっこう貴重な歴史の一幕にわれわれ一家はかすったのかもしれないと、あとになって感じた。

(データを調べてみたところ、今ではその記録は歴代十九位タイです)

 そんなあまり冴えなかった八月を経て、いよいよ九月になった。なってしまった。方向性の定まらない、暑い、子どものうるさい日々には、心底うんざりだったが、じゃあ働きたくてしょうがないかといえば、もちろんそんなこともなくて、いったい自分はどんな状態が希望なのかと自問した。迷ってばかりだ。この九月に僕は三八歳になる予定で、不惑がどんどん近づいていた。アラフォーという言葉は、一時期世間で大きく取り沙汰され、嫌悪したり忌避したり秘匿したり受け入れたり、とかく当事者の心をかき乱したが、そんなライトな言葉よりも、不惑のほうがよほど心に重くのしかかると思う。四十歳になったらウロウロ迷ったらいけない、四十歳にもなってそんな状態なのは恥ずかしいことだ、というプレッシャーに対して、自分の現状はあまりにも頼りなかった。
 とにもかくにも初出勤だった。電車で通勤することを心に決めていたが、初日は荷物があったり、実際の一日の流れを見てから乗る電車を決めたほうがいいだろうという考えがあったりで、とりあえずは車で出勤した。遠かった。物理的に遠いし、岡山の中心地を通らなければならないので道が混んでいるしで、ずいぶん時間がかかった。やはり電車だな、と思った。

2021年10月29日金曜日

百年前日記 20


 面接を受けるにあたり、いちおう化学の勉強をした。化学なんて、高校では一切やらなかったと思うので、実に中学以来だった。化学式だのモル比だの、まさか自分が就職のためにこんな知識を学ぶだなんて、と自分の人生の奇怪さを笑いたくなった。
 その勉強のかいもあって、というわけでも――別に筆記試験があったわけでもないので――ぜんぜんないが、面接の結果、採用ということになった。採用の知らせを受けたのが八月の十日頃で、それからお盆休みなども挟むため、出勤は九月一日からと決まった。
 これにより、なんとなくそうなればいいなと思っていた通り、無職期間はちょうど二ヶ月間ということになったわけである。そしてこれは、半年間という雇用保険の受給期間の三分の一であり、実際にもらいはじめたのは七月に入ってからなので、三分の二以上の受給期間を残しての再就職決定ということとなり、それというのは早期の再就職決定手当をもらう条件でもあった。これによりあと百二十日ほどかけてもらえるはずだった七十万円あまりが、五十万円程度に目減りはするものの、いちどにもらえる運びとなった。就職してから初めての給与が出るまではひと月半くらい掛かるはずだし、そもそも試用期間などという名目で額面が低いことを思えば、これはとても心強かった。
 だからこの手続きをするために行ったハローワークは、これまでと同じ場所と思えないほどに、明るい場所のように思えた。気持ちによって世界はぜんぜん違って見えるのだな、ということをしみじみと感じた。
 かくして心穏やかな日々がやってきた。雇用保険の受給期間中とはいえ、やはり先の見通しが立たない暮しは心が落ち着かなかった。それが解消されたことで、僕は堂々と働かない八月の後半を堪能することができるようになった。とはいえ八月は暑く、夏休みで家にいる子どもはうるさく、コロナに対する警戒の呼びかけはかまびすしく、そこまですべての憂いが取り払われて健やかだったかといえば、そんなこともなかった。しかしこれはもうどうしようもなかった。大人という生きものは、そういうものなのだと思う。そこから完全に解放されるためには、宗教を持ったり、それ相応の薬を使ったりする必要がある。とりあえず僕はまだそれらに頼らずに生きようと思っているので、たまにストロング系チューハイを飲む程度でなんとか日々をこなす。そのあたりが大人として求められる最大限の健やかさなのだろうと思う。

(これもまた時代には関係なく、いつまでも変わらない現実ですね。なにも知らないでいる幸福と不幸、なにかを知ることの幸福と不幸、どのスタンスのどの度合が正しいのかは、永遠に答えが出ないことでしょう)

2021年9月5日日曜日

百年前日記 19


  なにもしようと思わなければ、茹だるような暑さもあって、どこまでもなにもしないで過せてしまうので、そうなってしまわないよう、プールには何度か行った。倉敷市には五十メートルのプールがいくつかあり、特に夏季限定の児島や水島のそれは気持ちがよかった。しかし平日の午前中からプールに来ているのは、老人か、あるいは未就学児を連れた母親たちなどで、なんとなく居心地が悪かった。
 八月に入り、また会社の面接に行った。今度の会社は化学工場だった。営業みたいなことはどう考えてもできないので、どうしたって勤め先は工場ということになる。そして大掛かりな装置で、基礎的なものを作っている工場ならば、もうやることは決まっていて、仕事中は機械のように淡々と業務をこなし、労働に対して賃金以外のなにも追い求めず、ただ平穏に生きていけるのではないかと思った。
 ちなみにひとつ前の話題に水島という地名が登場したが、面接に行った会社は工業地帯で名高い水島ではなく、岡山市内にあった。そのため家からは少し距離があったが、化学工場のわりに最寄りの駅からなかなか近く、電車通勤をすることも可能そうだった。
 これもまた、あまりに唐突な化学工場などという業種を選んだ理由のひとつだ。
 せっかく転職をするならば、今度は電車通勤できる仕事がいいと僕は考えていた。これまでの縫製工場は、車で片道三〇分あまりかかった。これがおそらくはじめからそうであれば、なんの疑いも持たず、そういうものだと割り切れたに違いないが、高校生から二十代後半まで電車で通勤していた身からすると、移動するための運転を自分でしなければならない車通勤というものに、大いなる無駄を感じるのだった。運転手がいる公共の乗り物を使って乗客として移動できるならば、その時間は本を読んだり仮眠したり、自分のために使える。これまで毎日、往復で一時間超、運転に時間を費やしていた。運転中は、当然だが運転のことしかできない。できるのはせいぜい音楽やラジオを聴くくらいだ。それだって別に聴きたくて聴いているわけじゃない。運転には神経も使うし、睡眠不足にもなれない。なるべくなら車で通勤なんかしたくない、と常々思っていた。

(その車って、たぶんあれですよね。ガソリンとかいう、石油で走るやつ。かつて車はガソリンを燃やしてエンジンを回していたんですよね。とんでもない時代ですね)
 

2021年6月14日月曜日

百年前日記 18

 ちなみにその印刷会社はそこそこ大きな所で、デザインから印刷まで一手にやっていた。面接官の社員に社内をひと通り案内され、印刷所以外の、オフィスのほうも巡った。オフィスには、パソコンに向かってデザインソフトを操作している輩というのがいた。印刷所の人々はつなぎのような作業服姿だったが、こちらはラフな私服だった。
 そのさまを眺めて、こんな疑問が頭の中にわいてしまった。
 僕はどうしてパソコンでデザインソフトを操作するほうじゃなくて印刷工なんだろう。
 別にデザインの仕事がしたいわけでもなかったが、単純に不思議に思った。日芸といったって文芸学科ではデザインとはなんの関係もないが、それにしたってあまりにもなんのスキルもなく、単純作業のような仕事ばかりを求めている。そして七年間働いてなんとかものになった縫製の仕事は、やけに給与が少なく、業種としても斜陽だ。
 どうも社会の中で、うまいことできていない。
 求職者の立場になって、しみじみとそう感じた。そして気付けば三十五歳を過ぎていて、まだ小さな子どもがふたりいるのだった。ああ、これはだいぶまずいな、だいぶまずいな、と思った。
 かくして僕の再就職活動には、暗雲が立ち込めた。
 そもそも社会の中で自分が立派に仕事をしている姿を、自分でもまるで想像できないというのに、なぜ社会がそんな人間をすくい上げてくれるというのか。そんなことをしても、社会になんのメリットもない。世の中には、社会の中で立派に生きようと意気込む人が大勢いるのだ。それは社会を成立させるために必要な数よりももっといて、だからそれらを重用していれば社会は丸く収まる。わざわざその部分が欠けている人間を、社会が内側に引き入れる理由はまるでない。そんな奴はガッツがないから、どうせすぐにくじける。くじけられたら迷惑だ。避けたほうがいいに決まっている。
 ましてや僕は、転職におけるひとつの年齢制限であるという三十五歳を超えているのだ。勤めていた縫製工場は、いま考えると従業員の平均年齢がやけに高くて、男性陣の中で僕は最年少だった。だからあまり自分の加齢のことは気にせずに生きていた。しかし就職活動をスタートし、募集要項などを見るにつけ、じわりじわりとそのことを痛感させられた。
 しかし暗雲は立ち込めたものの、幸いなことに、僕にはまだまだ時間的な余裕があった。雇用保険の受給期間はたっぷりあった。細々と暮せば、そこまで蓄えを減らすことなく暮すことができるはずだった。そもそも七月の段階から、そこまで本気でなかったにせよ、就活を始めたことが間違いだったのだ。
 そう思う一方で、インターネットで収集した就職情報をせっせと提示してくる妻の、「だってあなたは発破をかけなければ本当にいつまでも就活しないでしょ」という言葉に反論することもできなかった。僕には大学生のとき、卒業するまで就職活動をしなかったという前科があった。
 実際、「まだ時間的な余裕がある」からいったいなにが安泰なのか。僕の能力的にも、社会情勢的にも、三ヶ月ほど待機して好転する要素などひとつもないのだった。
 しかしそこからは必死に目を逸らし、無職の夏を過した。

2021年5月22日土曜日

百年前日記 17

  まだしなくてもぜんぜんよいはずだったが、前述のように、「俺は夏の間は一切の就活をしない!」と堂々と宣言できるほどの大胆さはなかったため、妻にやんわりと促されるままに応募をし、その結果「じゃあ面接に」ということになってしまったのだった。
 受けたのは印刷の会社だった。もう縫製業はしないということは決めていて、じゃあなにをするかと考えたとき、やはりなんかしらの製造関係がいいと思い、印刷に目をつけた。印刷もまたどこまでも斜陽産業なんじゃないかという気もしたが、印刷といったって紙媒体とは限らず、商品パッケージなんかもあるようで、けっこう手堅いのではないかと思った。なにぶん、どうしてもすぐに再就職しなければならない切羽詰まった状況ではないため、まあ様子見でとりあえず受けてみるか、という感じで面接に向かった。
 印刷会社で働くかもしれないとなって、僕にはひとつの感慨があった。
 かつて岡山に来る前、我々一家は島根県の妻の実家で暮していたのだが、その際に僕はショッピングモール内の服のお直し所にパートで勤めていた。このあと岡山に移住して縫製業に就くことは、ここに入社する前から考えていて、そのための足掛かりだった。その店舗は、二十代男子の僕ひとりを除いては、他の全員が五十歳オーバーの女性というメンバー構成だったので、いろんな意味で修行の期間だったと思う。
 それで無事に岡山への移住が決まったとき、「向こうではなにをするのか」と同僚のおばさんから訊ねられた僕は、ほとんどが元縫製工である彼女たちに対して、「縫製業だ」と正直に答えるのがなんとなく億劫で、「印刷会社に勤める」と噓をついたのだった。
 それがもしかしたら真実になるかもしれないと思った。
 結果としてはならなかった。面接後、自分から断りの電話を入れた。
 この会社の印刷工の勤務体系は、「三日出勤、一日休み」をひたすら繰り返すのだそうで、それ自体はハローワークの募集要項に書いてあったので了解していた。曜日はもちろん、お盆も正月も関係なく、三勤一休。もっともそれはいま思えば、やっぱり実家が遠くにある家族持ちが長く勤められる形態ではなかったろうと思う。求人に応募するときは、なんとなく希望的観測になってしまいがちで、無理な条件も「大丈夫な気がする」と思ってしまいがちだ。この印刷会社に関しては事前に免れたが、僕はこれから何度もその過ちを、文字通り痛感することになる。
 それでこの印刷会社の選考をどうして断ることにしたのかといえば、印刷所は三百六十五日、二十四時間稼働だというのに、シフトが朝番と夜番しかなかったからだ。その点については面接官からなんの説明もなく、そこに言い知れぬ恐怖を感じた。二十四時間という時間を、ふたつのシフトで繋ぐとすれば、ひとつのシフトが十二時間を担当することになる。
 それはつまり、そういうことだろう。
 ぞわ、とした。

2021年5月18日火曜日

百年前日記 16

 かくして家にやってきた工業用ミシンは、工場で見ていた頃よりも巨大だった。占有スペースとしては、アップライトピアノとほぼ同一だろう。しかしミシンの左に伸びるテーブル部分に僕のパソコン一式を置けたので、ミシンとパソコンの合同の作業スペースと思えば、そこまで大袈裟に場所を取っているわけでもない。そんなふうに言い訳をして、工業用ミシンはリビングに置かれた。
 その工業用ミシンで、練習のブラウスのほか、夏用のマスク、子どもたちのセーラーブラウスとワンピース、マスクを入れるための移動ポケットなど、いろいろなものを作った。堂々と無職をすればいいのに、そんな胆力はないので、どうしても「生産」をして、救われようとしてしまうのだった。
 毎日が日曜日になったらプールやサウナに行き放題だなあとわくわくしていたが、考えてみたらプールもサウナも、日曜日にわざわざは行っていなかった。仕事の帰りに行っていた。それらの目的でわざわざ車を出し、さらにプールはまだしもサウナとなれば八百円ほどの代金が掛かってくるわけで、そんなことを思うと無職の身としてはなかなか繰り出す気にならないのだった。先立つものがないと、行動や思考がどんどん消極的になっていくような感じがあり、そのことにじっとりとした哀しみを覚えた。

(サウナは私も好きで、よく行きます。もっともこの頃のサウナと今のサウナは、だいぶ違うものかもしれません。先日は調子に乗って踊りすぎたため、猫が怒っていました)
 
 初めて再就職のための面接をしたのは、七月の終わりだった。

2021年5月17日月曜日

百年前日記 15

 それでパターンの勉強は結局どうなったかといえば、それなりにやった。襟や袖や前開きのさまざまな形状のものを組み合わせ、好みのブラウスを作るという本で、何着か実際に作ってみた。製作を通して、なるほどなあと思う部分もあったが、知りたいことの本質的な勉強にはなっていないような気もした。
 そもそも僕は服を作りたいのか? ということも思った。絵に描いたようなジタバタである。
 社会からほっぽり出されて、確たるもののなさをしみじみと感じた。しかし確たるものなんて、いったいどれほどの人間が持っているだろう。暮らしが安定的に続く限りは、それは感じなくてもいい懸案である。
 いまどきのレトリックでいうならば、武器というやつだ。我々は、弱肉強食の世界で、生き残りのために、武器を持たなければならないのだ。これのどこが文明社会なのか。
 百年後や二百年後の世界では、こんな仕組みから人類は解放されているのだろうか。

(少なくとも百年後は解放されていません。おそらく二百年後も無理でしょう。原資は有限なので、どうしたって奪い合いは起ります。そこからは永遠に逃れられないのだと思います)

 八年前の無職の夏は、小説を書いた。もうどんな小説だったか、あまりよく覚えていない。いちおう書き上げて、どこかへ応募した記憶はある。箸にも棒にも引っ掛からなかった。今回は小説を書く気にはならなかった。それでいていまになってこうして長い話をし始めている。だとすればこの行為もまた、ジタバタに他ならないのだと思う。

(しかしそのおかげで私はこうしてこの文章を読めています)

 七月はそれでも、はじまったばかりの無職生活を前向きに過せた。
 七月に入ってすぐは長引いた梅雨によって雨が続き、それが途絶えたところでようやく工業用ミシンが我が家に届けられた。工場長とミシン屋が、軽トラックで運んできてくれた。
「就活はしとるんか」
 僕が勤めはじめたときから工場長で、工場長としか呼んだことのない元工場長が、荷台からミシンを降ろしながら訊ねてきた。
「いちおう書類を送ったりはしてますよ」
 と僕は答えた。嘘ではなかった。よほどのことがない限り、すぐに再就職するつもりはさらさらなかったが、それでも急き立てられる部分はあり、ウェブ上での応募など、完全にしていないわけではなかった。
「そうか。偉いな。決まったら連絡くれ」
 五十代後半の元工場長は、かなり技術のある人だったこともあり、他の会社からの誘いもあるといつか話していたが、それもまた状況は変わっているかもしれないと思った。もっとも子どもは既に社会人だし、何十年も勤めた上での雇用保険は僕の条件よりもはるかに手厚いだろうから、余裕はあるはずだった。
 もうこの人と会うことはきっとないんだろうな、と思いながら見送った。

2021年5月15日土曜日

百年前日記 14

 僕はその足で倉敷市のハローワークに立ち寄った。そこまで急いで申請に行く必要はない、どうせ長期戦になるんだ、と言っていた人も会社にはいたが、やはりなるべく早く雇用保険をもらいたいと思い、退職日翌日の申請となった。会社にハローワークの職員が来ての説明で一応の予備知識はあったが、やはり自己都合退職と会社都合退職では、ハローワークの待遇がまるで違った。そうか、失いたくないのに職を失ってしまった者こそが、雇用安定所たるハローワークにとっての正規の客なのだな、と理解した。
「コロナの影響ですか」
 書類を提出すると窓口の人にこう訊ねられたので、「ちがいます」と僕は答えた。
 タイミング的にはあまりにも新型コロナウイルスの影響を感じさせるが、工場の閉鎖が告げられた一月末には、新型コロナウイルスがここまでのことになるとは誰も予想していなかった。本社が決定を下した工場の閉鎖に、新型コロナウイルスという要素は考慮されていないはずだった。
 申請が終わると、本来は受給に関する説明会のようなものがあるはずだったが、これもまた新型コロナウイルスの影響により取り止めだという。そうしてどこまでもスムーズに、ある意味で恵まれた境遇で、七日後からだという雇用保険の受給が決まった。一八〇日というその期間は、波風立てずにひたすら受給すれば、ほぼ年内いっぱいもらい続けられる計算だった。もっともさすがにそれはできないし、するつもりもなかった。一日の受給金額はせいぜい六千円足らずであり、それで家族を養って暮せるはずもなかった。
 そもそも間が持たない、とも思った。それでも七月と八月くらいは就職せずに暮せたらいいな、ということを漠然と思っていて、それなりにしたいこともたくさんあったが、大人の男のしたいことなんて、そこまで長い期間を埋められるほどではない。真夏の二ヶ月間が関の山だろう、と思っていた。ちょうど雇用保険には、「受給期間の三分の二以上を残して再就職を決定した場合には、残りの受給額の七〇%を一括支給する」という制度があり、だとすれば八月いっぱいまで六〇日あまり無職で過ごし、九月から再就職をすれば、ずいぶんな金額をせしめることができるぞ、と算段した。
 したいことの筆頭は裁縫で、仕事をしながらだと気力が湧かなくてなかなか取り組めない、本に書かれた作り方通りに作るのではない、パターンへの理解を深める勉強をしようと思った。それでハローワークの帰りに図書館に寄って、そういう本を借りて帰った。
 僕の無職の夏はこうして始まったのだった。

2021年5月12日水曜日

百年前日記 13

 商品という血流がなくなったあと、機械や設備という内部構造も瓦解して、工場という巨大な生き物は、もはや外殻だけの存在となった。その一連の作業を通して、工員とは本当にバクテリアのような存在なのだな、としみじみと思った。本当はずっと寄生していたほうがいいのだけど、なにかの弾みで宿主のバランスが崩れると、共倒れになる。それまで血液内の栄養分とかを掠め取って暮していたのが、肉体を自由に食べることができるようになるので一時的にフィーバーが起るが、それは食べてしまえば回復することは一切ない、破滅するだけの謝肉祭である。
 かくして謝肉祭は終わった。
 最終日は近所の仕出し屋から、ちょっと豪華なお弁当を取り寄せ、がらんどうになった作業場の床に生地を敷いて、工員で車座になって食べた。しかし一応そういう形は作られたものの、特に式次第があるわけでもなく、最後にセレモニーをするわけでもなく、なんとも締まらない終わりだった。新型コロナウイルスのことがなかったら、打ち上げとして酒の席は設けられただろうか。それはさすがにあっただろう、という気も、普通になかったんじゃないかな、という気もした。
 結局のところ、僕がもともと転職を考えていたことが示すように、ここは決していい会社組織ではなかったのだろうと思う。あまりやる気のある人はいなく、それはぬるま湯のようで居心地そのものは悪くないのだけど、やっぱり会社としては問題だったろうと思う。それでいて、本社になにかを言われたら急にその気になって厳しいことを課してきたりするので、落ち着かなかった。そして結果的にポシャった。なんてったってこれほどの決定打はない。立ち行かなくなって社員はみな次の仕事を探さねばならなくなった。会社としてこれほどの悪行はない。
 もっとも会社は一応の尽力はしたらしい。玉野や児島は縫製業の盛んなエリアなので、横のつながりで工員たちの働き口を世話してくれようとした様子はあった。
 とは言え世界はあまりにも新型コロナウイルスに侵食されているのだった。工場そのものを買い取ってくれる会社探しと同じで、こちらも春先くらいまでは「なんとかなるだろう」という雰囲気で事が語られていた。受け入れ枠があったのだ。それが工場の閉鎖間際になると、そちらの工場も余裕がなくなったのだろう、枠が狭まり、条件も渋くなった。それでもおばさんの中には、そこに入社した人もいたらしかった。しかし男性社員にとっては現実的な選択にはなり得なかった。やはり縫製業はつらいな、ということを改めて思った。
 そうして六月が終わり、僕は無職になった。
 もっとも七月一日は、離職票を受け取りに工場に赴いた。工場の敷地内はまだ回収されないゴミで溢れていた。午前中に完成したという出来立ての離職票を、元社員たちは元社長から受け取った。本社から派遣された埼玉県民の元社長は、後処理のためもうしばらくはこちらで単身赴任を続けるらしい。この人はそのあと会社でどういう扱われ方をするのだろう、ということを少しだけ思った。

2021年5月10日月曜日

百年前日記 12

 さて製造が終わってしまった。しかしまだ五月の中旬であった。工場が本当に閉鎖するのは六月末であり、それまでにはまだ四〇日以上もの期間があった。その間はいったいどうやって過すのか、といえば、これが特になにもないのだった。そもそも仕事がないのかなんなのか、本社もこれ以上、閉鎖ギリギリまで働けと命じてくる様子はなく、後片付けはあるにせよ、数十人の工員で何十日も掛かるはずもない。その結果、工員の我々は完全に食客のような立場で残りの一ヶ月超を過すことなった。
 こんなうまい話がこの世にあるのか、と思った。
 この頃には退職に関する条件も定まり、三年前に会社ごと買われたばかりなので退職金こそ発生しなかったが、その代わりとして一ヶ月分の給与が余分に支払われることとなった。また一斉退職となるためハローワークの職員が工場にやってきて説明会を開いたのだが、それによると会社都合の退職は、自己都合の退職に較べ、破格の扱いとなり、普通は九〇日、それも給付は三ヶ月後からなので実質受け取れる人間は少ない雇用保険も、その倍の日数分が即日給付となるという。これまでの給与に比例するという一日の給付金額をざっと算出し、それを日数で掛けて出てきた数字は殊のほか大きく、色めき立った。さらにいえばこの時期、政府による国民ひとりに対して十万円の給付やら、個人事業主である妻の持続化給付金などで、小市民のわが家はプチバブル状態にあった。
 そのため、いよいよ無職は眼前に迫ってきていたというのに、悲壮感はまるでなかった。気にしても仕方なかった。少なくとも七月八月は次の仕事のことなど考えずのんびり暮らそうという算段があったので、新型コロナウイルスで先行きが見えないこのご時世、秋以降の再就職のことを憂えてつらい気持ちになるなんてあまりに無駄なことだった。
 かくして、どこまでも平穏な日々を過した。世間の狂騒に対して、この工場だけは本当に平穏な世界だった。
 ゆるゆると片付け作業がはじまると、糸や生地、テープや金具などの資材が次々と、『ご自由にお持ちください』となって工員に振る舞われた。おばさんたちに混ざって、もちろん僕もたんまりともらって帰った。縫製工ならばいちどは夢見たことがある光景だろう。縫製に限ったことではないが、勤めている人間というのはそれなりの確率で、勤務先の扱っている物品が好きで働いているので、作業をしながら、これいいなあ、なんてことを思ったりする。しかしながらそれで持って帰ったらそれは内引きであり犯罪である。だから我慢する。その我慢をしなくていいのである。欲しいと思ったものをそのままもらって帰れる世界。ユートピアだ。
 その極めつけはミシンだった。工場で使っていた工業用ミシン。これはさすがに『ご自由に』ではないが、欲しい人には四万円で売ってくれるという話が舞い込み、すぐに申し込んだ。というのも僕がこれまで家で使っていたミシンは、東京で書店員をしていた頃に手芸に興味を抱き、池袋のビックカメラで買った三万円ほどのもので、機能的にはあまりにもちゃちなものであり、これまでもきちんと縫いたいものは工場のミシンを使っていたのだが、今後はそれができなくなるので、どうしてもいいミシンが欲しいと思っていたのである。それは妻にも伝えてあって、そのため再就職が決まったら職業用ミシンを買うという約束を取り付けていた。ちなみに職業用ミシンの新品は、八万から十万円ほどする。工業用ミシンはもちろんそれよりももっと高い。そもそも工業用ミシンは基本的に一般流通するものではない。それが今なら四万円で手に入るのだ。いつになるのか分からない再就職を待ってる場合じゃなかった。テーブルと一体型のそれは、七月以降に出入りのミシン業者が家まで運送してくれるということになり、この夏への期待がさらに高まった。
 六月も中旬になると片付けは加速し、机や棚が解体され、取っ払われ、ごちゃごちゃしていた工場の中はどんどん見通しがよくなって、ここはこんなに広い場所だったのかと驚いた。働いていた六年ほどで、いろいろな思い出があったような気も、ぜんぜんそうでもないような気もして、気持ちはいつまでも定まらなかった。

2021年5月4日火曜日

百年前日記 11

 さて縫製工場である。生き残るために必死にならなければならない、とことあるごとに言ってきて、あえなく頓死することになった縫製工場。しかし親会社からその宣告をされた時点では、まだ従業員たちには余裕があった。六月末までにはだいぶ間があって、まだピンと来ないというのもあったし、なによりそれまでにはまた別のどこかの会社がこの工場を買い取ってくれるのではないかという見通しがあった。
 そしておそらく、平時であればそれは叶ったのだ。
 しかし新型コロナの影響は苛烈で、人が出歩かなくなった世界において、アパレル業界に明るい兆しは一切なかった。ましてやこの工場が得意としていたのは高級紳士コートというジャンルであり、僕は実質この工場が右肩下がりになってからのことしか知らないのだが、普通に考えて、景気がいいときにしか繁盛しない分野であると思う。三年ほど前、親会社がこの工場を買ったときには、アベノミクスだなんだと叫ばれ、景気というのはもしかするとこれから本当に良くなってくるのかもしれないという雰囲気がたしかにあった。

(アベノミクス……?)

 しかし蓋を開けてみればコート工場の採算は、驚くほどにぜんぜん取れなかったらしい。それで閉鎖を決めたら、新型コロナがやってきて、このタイミングでの決断は慧眼だったような、しかしそんなことをいったらそもそもの買収が大間違いだったような、なんとも言えない話であるとしみじみと思う。
 緊急事態宣言下のゴールデンウィークが終わった五月上旬、この冬に向けてどうしても作らねばならなかった契約分のコートが仕上がり、四月まではそれでも何社か来ていた、この工場を買うかもしれない会社の社長という存在もすっかり姿を見せなくなり、工場内にはあきらめムードが生まれた。
 それはとても清々しいムードだった。これまで裁断場から仕上げ場まで、常にそれぞれの進捗状況の商品が血液のように流れていたが、最後のアイテムが過ぎていくと、前半の作業場から順々に、その清々しさはどんどん広がっていって、ついにそれが出荷されると、工場はもうその生命活動を完全に停止し、ただの場所となり、摂取もしなければ排泄もしない、とても清廉なものになった。経済活動というのは基本的に流れなので、製造業に限ったことではないけれど、しかし工場はそれが可視化されているため、余計に感じやすいと思う。工員は絶え間なく流れる商品を扱いながら、それで賃金を得ながら、この流れがなくなったらどれほどすっきりするだろうと夢見ずにはいられない。もちろんその夢はなるべくならば叶わないほうがいい。叶わない限り、自分は暮していけるのだから。しかし叶うときは叶う。止まるときは止まるのである。だとすればそれに立ち会った工員は、その喜びを存分に享受するべきだろうと思う。
 生きることは動くことで、もちろんそれは無条件に素晴らしいことだが、さまざまな辛苦を伴う。生老病死。老いることも病むことも死ぬことも苦しい。それもこれも生まれたがゆえに味わうはめになった。生きているから苦しい。そう思って翻るに、死の清廉さはどうだろう。しかし死ねばたぶんそれっきりなので、実際は清廉さもなにもない。ただの完全な無である。死を清廉なものと捉えるのは、猥雑な生の中にある間だけである。とはいえ傍で死にゆく者を眺めたところで、その気持ちを体感として味わうことはできない。そう考えれば、自分自身もその一部であった工場が閉鎖することになり、工場の生命活動がどんどん停止していくさまを眺めることは、現世でできる最大限の、死のシミュレーションであり、極めて貴重な体験なのではないかと思った。

2021年5月1日土曜日

百年前日記 10

 孤独になってしまった以上、いまさら後戻りはできない。もはや孤高を気取るしかない。そして孤高の人間は、そうでない人間のことを糾弾する。友達がたくさんいる人間には実社会でたくさんのメリットがあるが、友達がいない人間は、友達がたくさんいる人間を思いのままに糾弾できるということを除けばメリットはひとつもない。だから糾弾しないわけにはいかないのである。
 緊急事態宣言によってカラオケや飲み会、ライブにスポーツ観戦など、ありとあらゆることが自粛の対象となり、友達がたくさんいる人たちは苦しんだ。友達がいない人間にとっては一体なにが苦痛なのかさっぱり解らなかったが、彼らにとってそれは、どこまでもつらく、耐え忍ぶしかない日々であったらしい。その未曽有の危機に対して彼らはどのような手に打って出たかといえば、「今は我慢しようね」と盛んに言い合うことで連帯感を出していた。「繋がらない」をモットーにして繋がるこの現象を、僕は「繋がらなろうね症候群」と名付けた。どうしても人と繋がっていたい彼らにとっては、繋がらないことさえもが繋がりの象徴になるのだ。なんという執念だろうか。これまで僕は彼らのことを、精神性のない即物的な存在だと決めつけていたが、実はすごく繊細な生き物なのかもしれないと思い直した。妖精のような彼らにとっては、火を着けられずに折れてしまったマッチ棒さえもが、特上のおもちゃになるのである。
 だとすれば、やっぱり社会は、彼らだけのものだ。僕のような存在は、彼らの作り出す社会の片隅に、居心地悪く佇むよりほかない。彼らが愉しむ折れたマッチ棒に、僕は魅力を感じることがどうしてもできない。ビジネスも、キャンプも、車も、ギャンブルも、僕は興味がない。そしてただでさえ他人と共通の嗜好が見つけられないのに加えて、僕は僕の好きなものを好きな人のことが好きではないのだった。僕と僕の好きなものは、それだけの完結した世界であるべきなのに、第三者が介入して、僕の好きなものに関する、僕の知らないことなんかをひけらかされた日には、僕の好きなものは僕の好きなものではなくなってしまう。だからやっぱり僕は社会に入り込めない。社会において、社会に入り込んでいると受けられるさまざまな恩恵を享受できない。僕はこの恩恵のことを、友達クーポンと名付けた。それは物質として財布の中などに入っているわけではないが、世の中には友達クーポンというものが明確に存在する。社会はこの友達クーポンの循環で回っているといってもいい。友達クーポンは循環しているが、それはあくまで環の中をめぐるだけなので、環の外にいる人間のもとにはいつまでも舞い降りない。それは仕方ない。自分自身が、自分印の友達クーポンを発行しないのだから、相手が一方的に友達クーポンをくれるはずがないのである。この話に救いがあるとすれば、環の中にいる人間は、そのことに対して無自覚だということだ。内側にいる人間は、自分たちを客観視することができない。そのため、彼らは自分たちのやっていることの非道さに気づけない。ここまで見事な富の占有は、高等生物たる人間の所業とは思えない。福祉の概念のない下等生物のやることだと思う。
 もっとも人間が高等生物であるという前提が間違っている気もする。なにぶん文明を持っている生きものが人間だけなものだから、人間は高等生物であると無条件に認めてしまいがちだが、実はそんなことないのかもしれない。
 これまでの人生でしばしば、世界は弱肉強食だと伝えられ続けてきた。そのたびに、サバンナじゃあるまいし、なにを言っているのかと思ってきた。東京にいた頃に勤めていた書店でも、このたび働いていた縫製工場でも、「生き残るために必死にならなければならない」ということをお題目のように唱えられ続けてきた。そしてそれらの言葉は僕の胸に一切刺さることがなかったのだった。結局、書店はこの新型コロナでどんな状況になっているかと思い久しぶりにウェブで検索したらいつの間にかツタヤに吸収されて事実上消失していて、縫製工場はあえなく閉鎖である。ふたつともそもそもが斜陽産業であったとは言え、むごいと言えばあまりにもむごい。ここに感情はない。サバンナの掟に感情などあるはずがない。しかしながら棲み処を追われた動物と異なり、人間には感情がある。あってしまう。ここに人間の悲劇がある。人間の作り出した社会の仕組みは、高等なようで別にちっとも高等じゃないが、この部分の悲劇に思いを馳せることができるのは人間だけなので、だとすればここにこそ人間の高等生物的な部分は存在しうる。だから僕はいまこんな文章を書いているのかもしれない。

(少なくとも文章を書けるのは人間だけなので、そこだけを根拠に人間は高等生物であると宣言したっていいと思います)

2021年4月27日火曜日

百年前日記 9

 それにしても、どうして僕がこんなにも、大人が会社でどんなことをしているのか判らないのかといえば、それはやはり友達がいないからだろうと思う。僕にはあまりにも友達がいなかった。もともと大した数がいなかったのに、集団を離れるたびにそれまでの人間関係を清算しようとする癖があり、転職や引っ越しを繰り返した結果、いよいよ僕の周りからは友達と呼べる存在がいなくなってしまったのだった。高校や大学時代の友達が多くいれば、彼らがどんな仕事をしているのか知ることで、世の中の社会の仕組みを知ることができるだろう。友達だけでなく、友達の語る友達の友達のエピソードでもいい。そういう、「人の話」によって社会への視界はクリアになる。なぜなら社会は人でできているからだ。僕にはそれがないので、社会はいつまでも覆いが掛かったままだ。それでも自分が実社会の一員でないのならなんの問題もないのだが、そんなことはない。経営状態の悪さから勤めていた縫製工場は閉鎖が決まり、ろくな資格もないまま、新型コロナで停滞する世界において再就職活動をしなければならない。現実は過酷だ。人間関係がないので、なんのコネもツテもない。
 この癖はいつから身についてしまったのか、と思う。
 他人と長く同じ時間を過ごすと、自分にも相手にも、失敗や恥の場面が生まれる。僕はそれが嫌いなのだった。だから関係が切れてその思い出が消えると、とても清々しい気持ちになった。要するにプライドの高さということかもしれない。恥部を見せることにも、見ることにも、強い拒否感がある。取り繕った状態でしか人と接したくない。これまでこれは童貞をこじらせたせいだろうと漠然と思っていたが、考えてみたら子どもの頃からこの傾向はあったように思う。
 小学校高学年の頃だったか、テレビでどこかの地方の祭りの情景を映し出され、その土地の鬼的な生き物に襲われた子どもたちが、泣き叫びながら逃げ回っていた。無様だった。
 僕はそれを眺め、
「こんな姿を大人に見られたら地元にいたくなくなるんじゃないか」
 ということを言った。すると一緒にそれを観ていた母親が、
「そんなこと言ったら子どもなんて、これよりもよっぽど恥ずかしい場面をいくらでも見られてるんだから」
 と言ったのだった。
 それを聞いて僕はとてもつらい気持ちになった。
 産まれたときには皺だらけの赤い顔で、糞尿を垂れ流し、母の乳房に吸い付き、僕は育った。人はそれを経なければ成長できない。つまり人とは恥ずかしいものなのだ。だとすれば成長してから取り繕ってもなんの意味もない。そう吹っ切れる人間と、じゃあ自分の恥ずかしい場面を知らない人しかいない世界へ行こうと考える人間がいる。ここに人それぞれの人間関係のスタンスがある。僕は完全に後者だ。しかし恥ずかしい場面を実際に見られていなくても、生きているということはすなわち恥ずかしいことをたくさん経てきたということなので、避けたところで実はあまり意味がない。その意味の乏しいことに固執した結果が、いまの孤独だ。

(プライドを持っていたら損、プライドで飯は食えない、というのはたしかに真実ではありますけど、プライドのまるでない人間ほど醜悪なものもないと思います。獣から分離して文化と自意識を持つことにした人類にとって、これは永遠の命題でしょう)

2021年4月24日土曜日

百年前日記 8

 三月の中旬ごろ、まだ人々が抱くべき絶望感のスケールを見定めることができずにいた時期、スーパーの棚から保存のきく食品が消えるということがあった。それはほんの一時期のことだったし、完全に食材が手に入らなくなったわけではなかったが、それでもお店に行ったのに食べ物が置いていないということに、すさまじい衝撃を受けた。はるか昔、狩猟で食べ物を手に入れていた時代に比べ、自分はとても安定した時代に生まれ育っていると思っていて、たしかにそれは真実ではあるのだけど、しかし結局のところスーパーへの安定供給が止まってしまったら、狩猟時代となんの違いもなく、我々は飢えてしまう。子どもに食べさせるものがなくなってしまう。
 この地面、実は薄氷なんじゃないか、と僕はそのとき悟った。

(人類の歴史とは、その薄氷をなるべく厚くする歴史であるともいえます。ただしそれはきわめて難しい。なぜならその薄氷とは、すなわち生老病死だからです。生老病死を克服するということは、生命体として存在しないということです。結局のところ我々は生きている以上、薄氷の上にしか立っていられないのだと思います)

 緊急事態宣言により人が動かないことが求められた結果、テレワークという働き方が一気に推奨されるようになった。これまでも理想論としては語られてはいたものの、一向に実現する気配はなかったのが、戦争が科学技術を躍進させるように、必要に迫られたら物事はすさまじいスピードで進展するものらしかった。
 これは実際のオフィスに出勤することなく、自宅のパソコンで仕事を行なうという働き方のことで、それが可能な職業はなるべくそうしていただきたい、と政府は要請した。
 もちろん製造業である僕にそんな話はまるで関係なく、むしろこの時期は工場として集大成となる生産がいちばん忙しい時期だった。もっとも感染の拡大というのも、東京や大阪の繁華街が中心の話で、岡山県の片田舎で人の出入りもなく作業をする人間たちにとってはどこまでも縁遠い話だった。工場の周りに駅はなく、公共の乗り物を利用して通勤する人間はひとりもいなかった。
 そのためすぐには関係のない話だったのだが、七月以降は別の仕事に就かなければならない立場からすれば、そういう社会の動向は、無関係な話ではもちろんなかった。次の就職先として、縫製業は先行きの不安から除外するとして、今度はいわゆるオフィスワーカーになりたいと思っていた。ただしオフィスワーカーとはなにか、と問われたら明確な答えは持っていない。そもそも僕は、大人が会社でどんな仕事をしているのか、いまだによく判っていないのだった。作る人と、売る人と、事務的なことをする人という、だいたいその三つくらいでありとあらゆる会社というのはできていて、じゃあいざとなったら通勤せずにパソコンだけで仕事ができてしまう人間というのは、そのうちのどれなのか。そもそもそれって本当に世界にとって必要な仕事なのか。これまで現場での労働にばかり従事していたので、そういう本当に必要なのか怪しい立場の仕事に限って、やけに報酬が高そうだという悪い印象もあった。
 テレワークの推進によってそのあたりの矜持が刺激され、パソコンで完結してしまう仕事なんて幻のようで空しいではないか、と思うようになった。仕事というのは、やっぱり実際に手掛けてなんぼのものだろう、と。

(この選択は正しいと思いますよ。コンピュータで完結できることを人間がする意味はまるでないですからね)
 

2021年4月23日金曜日

百年前日記 7

 東京オリンピックの一年延期が発表されたのもこの時期だった。どう考えても四ヶ月後に開催することなんてできないということはもっと前からみんな判っていたが、さまざまな利権問題もあって決定までに時間が掛かったようだった。
 僕は東京オリンピックそのものにはそこまで興味がなかった。自国開催を経験するのはもちろん初めてだったが、とは言え舞台は東京である。競技場も知らない所ばかりだし、時差がないことを除けば外国での開催とそう違いがあるとも思えなかった。
 それでも強いて唯一特別な感情があるとするならば、八年前の二〇一二年、ロンドンオリンピックが開催された夏、僕はそれまで勤めていた書店を退職し、七月に島根へ移住して、秋に酒造会社に就職するまでヘラヘラと暮したので、無職状態で大会を眺めた(もっとも時間はたっぷりあったはずだが、もともとの興味のなさから、そこまで眺めなかった)こととなり、本来ならば今回も二大会ぶりに、無職状態で相対するオリンピックになるはずだった。オリンピックというものに対して、そういう感慨があった。しかしその予定はあえなく頓挫した。

(そうか。まさにこのときが、あの東京オリンピックの年だったのですね。そしてこの文章が書かれた時点では、まだ実際にオリンピックがどうなったかは判っていないのですね。まあ、ちょっとあんまりな結末でしたね)

 東京オリンピックの延期が発表されて踏ん切りがついたのか、四月に入り、いよいよ緊急事態宣言なるものが政府から発令された。これは国民の活動をとにかく小さくし、交流を減らすことによって感染の拡大を止めることを目的にした施策で、これまでの日々で十分に判ってはいたが、やっぱり今って後世に残る緊急事態なのだな、ということをこの宣言によって改めて強く実感した。
 おとなしく家にいることが奨励され、そこから逸脱した行動を取った人間は、実際にウイルスに感染したかどうかは関係なく糾弾された。自粛警察という言葉が生まれ、彼らの取り締まりは苛烈だった。この現象に対して、八〇年ほど前の、太平洋戦争へとなだれ込む軍国主義時代のことを想起しない人間がいただろうか。国への隷従が強要され、一億総火の玉を合言葉に突き進み、命を惜しんで反戦の素振りを見せようものなら非国民として吊し上げられたというあの時代。もちろん反戦が理念であるのに対し、伝染病が蔓延しているのに不用意な行動を取ることは理念でもなんでもない。ある程度の批判はされてしかるべきである。それでも僕がショックだと思ったのは、市民による相互監視の雰囲気というのは、こうも簡単に、日常生活から地続きで形成されるのかという、そのことだった。
 日常とは思っていたよりもはるかに脆いものなのだと、新型コロナウイルスによって僕は悟った。

2021年4月22日木曜日

百年前日記 6

 作るとなったら、資材を買いに行かねばならない。妻が使ったように、家には資材があったといえばあったのだけど、それは決して布マスクを作るために買ったものではなかった。布マスクを作るには、そのための生地を買わなければならない。そしてそうやって目的買いしたものは、完全に使い切るわけではないので、結果的に家には資材がどんどん増えることとなる。これまではそのことに対していくらか自制心も働いていたのだが、最近では娘たちが手芸をしたりするようになってきたため、娘が使うかもしれないし……、という言い訳が立つようになって、いよいよ歯止めがかからなくなった。
 そんなわけで赴いた手芸屋だったのだけど、普段と様子が違っていた。まず駐車場が空いていない。こんなことは初めてだった。それでもなんとか車を停めて入店すると、店内は大勢のおばさんたちで殺気立っていた。僕も含めて、ここにいる人たちはみな、布マスクの資材を買いに来ているらしかった。三月下旬、どの家でもインフルエンザ用に昨年末あたりに買っておいたマスクの残量が心許なくなり、しかしながら不織布マスクの店頭価格は法外で、布マスク作りへの重い腰を上げるタイミングなのであった。
 普段は手芸屋に来ないような層も多くいるようで、店員に質問をしたいが、感染対策として店員に質問するのは控えてくれとポスターで告知されているし、そもそも店員はみな大行列の裁断やレジ業務でそれどころではない。その結果として、店内にはフラストレーションが横溢していた。
 これは後日、この当時よりはいくらか落ち着いた時期に手芸屋に行ったときのことだが、接着芯の売り場に、これまでにはなかった「これは接着芯です!」という注意が掲示されていた。どういうことかというと、たぶん薄手の接着芯をガーゼと誤解して買った者がいたのだろう。その手芸初心者のことを思うと、胸が痛む。なんとか材料を買い揃え、慣れないミシンをして、いよいよ完成という段階で、アイロンをかけたらくっついてしまったのだ。接着が溶けて裏表の生地がくっついたマスクは、その接着芯本来の機能性ゆえ、呼吸がままならなかったことだろう。切なすぎる。
 斯様な手芸屋狂騒の風景もまた、戦中戦後らしい感じがあったし、さらに遡って文明開化の時代のようでもあった。誰もが手探りで、受け入れることにしたものと受け入れないことにしたものを取捨選択していた。「新しい生活様式」というフレーズが唱えられはじめるのはここからもう少しだけ先だが、いまから約一五〇年前、江戸から明治へと時代が移り変わるときの人々の気持ちが、少しだけ解ったような気がした。

(結局のところ、人間という生き物そのものは、ライオンやウサギが変わらないように、いつの時代も変わっていないということでしょう。文明の進歩やそれに見合う社会常識は、体にまとわりついている程度のもので、文明開化や戦争やパンデミックといった強い風が吹くと、簡単に吹き飛んでしまうのだと思います)

 そんな狂乱の手芸屋で、僕はなんとかマスクの資材を手に入れた。ダブルガーゼは棚にはなく、裁断場でひとり一メートルに限っての販売だった。配給のようだ、とやはりそんなことを思った。
 そうして満を持して作ったマスクは、すばらしい出来映えだった。マスクそのものは、ウェブ上に作り方が公開されていたオーソドックスなプリーツ型なのだが、なんといっても表地のセレクトがよかった。五種類ほど選んだのだが、どれもかなり派手でありながら品もあり、さすがだ、さすがは僕だ、と思った。家にあったガーゼ生地も使い、三〇枚ほど作れたので、自分たち一家で使うほか、両方の実家にも送ってやった。それに対して「助かる! すごくいいね!」という反応が返ってくるのは当然のことなので当てにはならないが、作ったものを職場に着けていったら、同僚のおばさんたちから大絶賛を浴びたので、やはり傑出した仕上がりだったことは間違いなかった。
 実はこの春先から、ウェブ上でハンドメイド作品を販売するサイトに登録をしていて、オリジナルキャラクターをアイロンプリントでバッグにデザインしたものなどを出品していたのだが、そこで布マスクも出品したらどうだろうかと一瞬考えた。でも実行には移さなかった。布マスクの出品は禁止ではなかったのだが、いちおう衛生関係なので無責任に販売していいものかという思いがあったのと、あとはなにより、この時期にマスクで金儲けを目論んだら駄目だろうと思ったのだった。不織布マスクの高値販売にあぐねて布マスクを作ったのに、布マスクで商売をはじめたらミイラ取りがミイラそのままである。
 加えてこの数週間前に、山梨県の女子中学生が新型コロナウイルスの流行を受け、貯めていたお小遣いで資材を購入して大量の布マスクを作り、すべて福祉施設に寄付したというニュースがあったので、そのことを思ってもやはり販売はためらわれた。
 もっとも世の中は布マスクの販売が大ブームで、いろんなお店のレジ横に、お店の人が作ったのだろう布マスクが売られていた。衛生観念や倫理観などはなぎ倒し、新しく着けなければならなくなったこの装飾具をみんなで愉しもうじゃないかという、商売人のたくましさを見た。これは正しいことだ。コロナ禍を通して、経済を回すことの大切さを思い知った。しかし一方で山梨の女子中学生の行動もまた、もちろん正しい。
 マスクで儲けるのはいかがなものかと逡巡するだけだった僕ばかりが、正しくなかった。

2021年4月16日金曜日

百年前日記 5

  仕事は快適だった。どうせ先のない、あとは去年の時点で受注してしまった注文分を生産するだけ、という状態になった工場には緩んだ空気が流れ、居心地がよかった。
 あまりにもよすぎたのだと、このことはあとになって痛感することとなる。
 この時期、世の中で新型コロナウイルス対策としてマスクが店頭から消えるという出来事が起った。
 この騒ぎが起る前は五〇枚入りで五〇〇円を切っていた不織布のマスクが、三〇〇〇円だの四〇〇〇円だのという高値で売られるようになった。希少価値が高まれば値段が高くなるのも当然、というのが売り手側の主張で、われわれ消費者は、お前らこの機会にぼろ儲けしようとしてるんだろうと思いつつも、必要に迫られれば買うほかなかった。戦後の闇市のエピソードを聞いて抱くのと同じような気持ちを、現実で抱くはめになり、ああいまはそれくらいに非常時なのだ、と改めて感じた。

(ここでいう戦後とは、第二次世界大戦のことですね。原子爆弾が兵器として使用された、人類史上唯一の戦争)

 不織布マスクは紙でできた使い捨てのマスクという認識だったのが、実は名前でもちゃんといっているように、特殊な布でできていて、洗濯もできないことはない、という蒙が啓かれたのもこの時期だった。しかし実際にやってみたら、パラソルハンガーに洗濯バサミでぶら提げられた不織布マスクの情景は、やけに自分たちが侘しいことをしているような気持ちになり、定着しなかった。
 そのような状況に、妻がある日、布マスク作りに着手した。妻は編み物はするが縫製方面はからっきしの人間である。針と糸はもちろんのこと、ミシンだって普段は触ろうともしない。それでも娘たちの着けるマスクがなくなることを憂えて母の大いなる愛が発動したのである。
 幸いなことに、資材は家に揃っていた。表面となる綿の生地はもちろんのこと、裏面のガーゼは娘たちが赤ん坊の頃にスタイなどを作るために買ったのが残っていたし、ゴムもまた娘たちの体育帽子の紐を付け替えるとき用の細いものがあった。常日頃から、手芸に関するストック物品が多すぎると大いに文句をいわれていたが、このような非常時にあって、ストックというのは大事なのだということを悟った。
 僕が労働を終えて家に帰ったときには、妻の布マスク作りは佳境に入っていて、それは惨憺たるありさまだった。
「あとはマスクの端にゴムを通すだけだからお願い」
 と妻はいったが、この作品のクレジットに僕の名前が載るのは勘弁してほしいと思った。
 それで仕方なく、ほどくべき部分をほどき、アイロンの段階からやり直すことにした。ものによってはそれでもどうともならず、裁断の段階からやり直した。長方形に切ればいいプリーツ型マスクの裁断が、どうしてこうもズレるのか、裁ちばさみではなく石ででも切ったのか、と思った。
 かくして初めての布マスクはなんとか完成したのだけど、やはりまるで満足のいく出来ではなかった。俺が最初からやっていればこんなことにはならなかったと僕は深く反省し、自分の手でちゃんとしたものを作ることにした。妻の作った布マスクは、実用性はまるでなかったけれど、僕をその気にさせるという着火剤の役目を果たした。

2021年4月14日水曜日

百年前日記 4

  新型コロナウイルスはそういった、惰性でなんとなく在り続けたが、実はなんの意味もなかったことを、この世界から取っ払うという働きをした。ウイルスはただ災厄であり、功罪などといっては語弊があるけれど、人類がそれまでよりもいくらか研ぎ澄まされたことは間違いない。単に余裕がなくなって殺伐としただけ、ともいえるけれど。
 それが最も顕著に表れたのはやはり経済方面で、人々の活動が規制されたことで経済が回らなくなり、余裕をなくした企業は、いらない人員を切った。いらない人員を切らなかった企業は、全体が斃れた。
 世の中には雇用への不安が横溢していた。
 そんな状況の中で、六月末での退職が決定している我が身は、ある種の無敵状態だと感じていた。新型コロナウイルスの影響で会社の経営が傾いて路頭に迷うことになるのではないかという、一般的な勤め人なら少なからず抱いただろうそんな漠然とした不安から、僕は完全に解放されていた。
 このような心の作用は両親の離婚のとき以来だな、と思った。
 僕の両親は僕が小学二年生の頃に離婚した。父が不倫相手との間に子どもを作ったのがその決定打だったようだが、その前から夫婦の関係は冷え込んでいたに違いない。子どもの僕は自然とその空気を感じ取っていて、僕は物心がついた頃からずっと、両親は離婚しないだろうか、という不安を抱えていた。でもこういう不安は大抵の子どもが抱いているもので、我が家の場合はそれがたまたま的中してしまったパターンなのだと思っていたが、のちに妻にこの話をしてみたところ、妻は子どもの頃に両親の離婚を心配したことなどいちどもなかったというので驚いた。
 そうして両親の離婚が成立し、父が家からいなくなったら、ものを思うようになってからずっと頭の中にあった不安が、現実のものになってしまったという形ではあったにせよ解決し、きれいに消え去ったので、見通しのよさに驚いた。あの不安がないということは、こんなにも清々しく晴れやかなことなのか、と思った。
 もっとも漠然とした不安がないだけで、母子家庭という境遇が発生してしまったのと同じように、六月末をもっての無職は決定しているのである。だが決定していない宙ぶらりんの状態よりも、それがいくらか悪いことであろうとも、決定しているほうがよほどいい。無駄にあれこれと思いを巡らさずに済むからだ。

(さまざまなことに思いを巡らせることは、悪いことではないと思います。私たちの時代は、考えようと思わなければ、どこまでも考えなくて済むようになっているので、わざと考え事をしたりしますが、ときどき無性に阿呆らしくなります)

 そのため世間の陰鬱さに対して、春先の僕はわりとご機嫌に過ごした。

2021年4月10日土曜日

百年前日記 3

 ただしこのときの提案は素直に受け入れることにした。インターネットで、就職に有利な資格というキーワードで検索をする。すると待ってましたと言わんばかりの体裁の整ったサイトが次々に出てきて、さまざまな資格が紹介された。しかし簿記もファイナンシャルプランナーも宅建士も、あまり自分と結びつく気がしなかった。
 そもそも僕は、縫製業に見切りを付けて、じゃあそれからなにをするか、なんの考えもなかったのである。
 そのためしばらく吟味した結果、まあこれならば職種を限定せずに広く通用するだろうと、TOEICの勉強をすることにした。語学ということで、他のものよりはいくらか興味も抱けるだろうと思った。

(いったいなんだろうと思って調べたら、ビジネス英語の試験とのこと。なるほど、この頃にはまだ言葉の壁なんてものが存在したわけですね。話し相手がぜんぜん理解できない言葉で喋るだなんて、想像がつきません。そんなの不便すぎるじゃないですか)

 しかし即座に事の顛末を明かしてしまうが、結果として僕はTOEICの試験を受けずに終わった。勉強は、テキストを買ったりアプリを利用したりして、一時期それなりにやったのだが、新型コロナウイルスの影響により、この春からしばらく検定試験そのものが開催されなかったのである。なんともやるせない結末ではないか。
 新型コロナウイルスの流行はそれほどに加速していて、二月の終わりには政府の方針により一斉休校が要請され、娘たちが小学校と幼稚園に行けなくなってしまった。上の子は三年生なので特別どうということはないが、下の子に関しては幼稚園の年長である。すなわちこの春は、卒園と入学の春だったのだ。
 もっとも休校に伴う我が家の葛藤はその程度のもので、世の中の共働き世帯にとっては、子どもたちを家に残して出勤しなければならないということで、大変由々しき事態であったらしい。政府はこれまで女性活躍と銘打って、専業主婦という存在をなるべくこの世から抹殺せんと施策を次々と繰り出していたが、いざとなったら「家には母親がいる」という固定観念があったことが判明したので、むちゃくちゃな話ではないかと思った。

(政府のすることというのは、どの時代でもむちゃくちゃなのですね。時代が違うといろいろなことが様変わりするなあとここまでの文章を読んで感じていましたが、そこだけは不変なのですね。不思議なことです)

 結局、下の子の卒園式と入園式は、なんとか執り行なわれた。参列者は両親のみ、来賓なども一切なしの簡潔なものだったが、かえってよかったという声が多く聞かれた。地元の名士なのかなんなのか知らないが、来賓などという得体の知れない存在は、本当にただの無駄だったのだなと、自分の学生時代のことも含めてしみじみと思った。 

2021年4月8日木曜日

百年前日記 2

 かくして約五ヶ月後、六月いっぱいでの退職が決定したのだった。
 この五ヶ月後というのが曲者だった。これが一ヶ月後であれば心置きなく大騒ぎできるのだが、五ヶ月後のことに今から右往左往することもできず、明日からも納期に追われる生産は続くわけで、えらいことになったという思いは抱えつつも、工員たちはわりと淡々としていた。
 僕自身は宣告をどう受け止めていたかというと、実はかなり華やいだ気持ちになっていた。実はちょうど、このままここで縫製工を続けていても、あまりいい未来は待っていないような気がして、悩んでいたところだった。かといって自発的に転職するほどの熱情もなかったため、身動きが取れずにいた。だからこれはチャンスだと思った。
 実は三年前にも、この縫製工場は身売りを経験していた。もともとは工場はひとつの会社で、そこには社長と呼ばれる人もいた。その経営が立ち行かなくなって、今回われわれを見放すことにした大きな会社に買われたのだった。その際、工員としては勤務する会社が替わるわけで、新しい会社に入社しますかしませんか、という意思調査がなされた。このとき後者を選んでいたら、会社都合の退職ということになり、違う未来があったかもしれないという思いが、この三年間ずっと心の中でくすぶっていた。

(縫製業のことはぜんぜん詳しくないですけど、今だってもちろんファッションブランドはありますし、どうすればいい着こなしになるかは若者にとって大きなテーマです。ただしよほどの伝統工芸品みたいなハイブランドでない限り、あまり衣類を人間が作ってるイメージはありませんね)

 だから今度のチャンスは逃すまいと思った。工場としては、ふたたびどこかの会社が工場を買ってくれることを期待しているようだったが、もしも三年前と同じ状況になったら今度は入社しない選択をしようと僕は心に決めた。
 そのような意識だったので、妻に工場の閉鎖を告げるときも、僕はまるで悲愴なムードを出さなかった。
「えええ」
 と妻はまず驚きの声を上げたが、最近の僕が今の勤めに不満を抱いていたことを、妻はもちろん愚痴という形で聞かされていたため、「まあたしかに逆によかったかもね」と前向きに受け入れてくれた。
 そして、
「無職まで五ヶ月間もあるのなら、この間になにか資格の勉強でもしたら?」という提案もしてきた。
 思えばどこまでも現実的でまっとうな提言である。
 妻という人間は、どんなときも正しいことを言う。だから妻の言うことをひたむきに聞いていれば、人間として大きく道から外れるということは決してないのである。しかしなかなか僕が、ひたむきに聞くということができないがために、ことはそううまく運ばない。この点に関しては、夫として申し訳なさしかない。

2021年4月7日水曜日

百年前日記 1

 思い返してみると、工場の閉鎖を告げた本社の役員は、マスクを着けていなかった。
 一月下旬、たしかにあの当時はまだ、マスクは必須のものではなかった。囁かれはじめた新型コロナウイルスの蔓延は、あくまでも対岸の出来事であり、数年前にその状態のまま収束したSARSやMARSといった伝染病と同じように、今回もどうせ解決するのだろうという認識だった。
 工員を、狭い会議室に入れる人数分だけ呼び出して伝えていくというスタイルは、のちの時代から見れば絵に描いたような三密であり、それでマスクを着けないなんてことはあり得ない。しかしそれまでの世界の価値観では、大事な内容のことを伝えるときにマスクを着けていることこそ、誠意の表明としてあり得ないことだったのだ。
 だから無数の工員の目に囲まれながらそのことを宣告する、役員の後ろめたそうな顔を、僕はきちんと見た。
 以前の世界では、こんな表情も、きちんと外界にさらさなければならなかったのだ。
 ちょっと人として生々しすぎないか、と今の僕ならば思う。

(私もそう思います。というより、この年からはじまったその感覚が、今も続いているのかもしれません)

 経営不振のために地方の工場を切るという本社の決定、そこに感情の入り込む隙はないが、しかしそれを工員に伝えにくる人間はその限りではない。この役員の立場になって想像すれば、あまりに過酷な役回りだ。こんなにも希望のない出張もそうそうないだろう。
 すべての工員に伝えるために、十数人ずつ、五回ぐらいに分けてこの宣告の儀はなされたはずで、そのたびに会議室の空気は張りつめ、乱れ、沈んだことだろう。どういう順序だったのかは知る由もないが、僕はたぶん四番目の回だった。そのためすでに三度のそれを経た役員の顔は、すっかり土のような色になっていた。
 この役員を、僕はそれまでに二度見たことがあった。本社の役員が来るからと、みんなで工場内を念入りに掃除して出迎えた。そのときの役員は、ちゃんと本社の役員らしく、傲岸な雰囲気をまとっていた。君たちの生殺与奪は私次第なのだから、私にちゃんといい印象を持たれるように励みたまえよ、というプレッシャーを放っていた。結局そのプレッシャーにわれわれの工場は応えることができなかったわけで、そう考えたら彼はこの段になっても別に堂々としていてもよかったような気もしてくるが、要するにきっと、悪い人じゃなかったんだろう。そして、だからこの役回りをするはめになったのだと思う。

(昔の人たちは、家族でもない相手に、そんなに感情をあらわにして生きていたんですね。野性的だなあ)

 かくして約五ヶ月後、六月いっぱいでの退職が決定したのだった。

2021年3月31日水曜日

花の春

 花を見に行く。
 花といえば桜のことである。そんなわけで木次へと繰り出した。日本の桜の名所100選にも選ばれている、島根県東部が誇る花見スポットである。
 実はここには去年も行った。なので、今年は桜の開花がわりと早かったが、去年はいつぐらいだっただろうと、1年前の3月下旬から4月上旬のブログを確認しようと思ったのだが、僕もファルマンも、春休みの島根帰省について、おもしろいくらい一切の記述をしていなかった。してないことにしていた。なんでだろう。箝口令でも敷かれていたのだろうか。
 そのときも、岡山在住時代によくやったパターンで、はじめの週末に全員で島根に行き、僕だけが岡山に帰り、ファルマンと子どもたちは1週間を実家で過ごし、また次の週末に僕が島根に迎えに行くというスタイルの帰省だったが、そのひとりで過した1週間の中で、僕は初めての布マスクを製作したのだったと記憶している。これはいま思えば、もはやすっかり定着した実利&ファッションアイテムとしての布マスクの、開始のタイミング的にだいぶ早いもので、桜並木を歩きながら、けっこうすれ違う人々の視線を感じたのを覚えている。「あ、そういうのって本当にありなんだ」と何十人かの蒙を啓いたやもしれない。振り返ってみれば、時代を先取りしたインフルエンサー的なことをしていたのだ。それから1年で世界はすっかり変容した。今年の桜並木を歩く人々は、もちろん全員がもれなく、さまざまなデザインのマスクをしていた。どの時代も変わらぬ桜を眺めながら、文化なんてものは実に簡単に変わるのだな、ということをしみじみと思った。
 お弁当を持ってきていたので、土手に座って食べた(いうまでもないが、島根県だし平日だし、他のグループとは余裕で5メートル以上の距離がある)。しかし風が強かった。行った日の前日が本当に強風で、満開になったばかりの桜がほとんど散ってしまうのではないかと危ぶんだ。来てみたらそこまで壊滅的ではなかったが、しかし葉っぱも出てきていて、明らかにピークは過ぎていた。風もまだ多少残っていて、ラップなどが飛ばされぬよう注意しなければならず、さらには黄砂もなかなかの濃度だったため、「まあ今年も花見をしたってことで!」という、若干せわしない花見となった。とはいえ去年のそれも、布マスクのエピソードなどが甦ってくるように、花見というのはなんだかんだで思い出として残りやすい性質がある気がするので、どんな形でもしておくに越したことはないと思う。できてよかった。
 花といえば桜のことなのだが、春に咲くのは桜ばかりではない。花の郷という、植物園というのか、季節ごとの花を咲かせて来園者をお出迎え、という感じの有料施設へも、春の花々を見に繰り出した。なにしろ30代後半になり、「花を見られる」ようになったのだ。花に限らず、鳥とか、波とか、飽きずに眺めていられるようになったので、こういう施設へも、子どもの写真を撮るため、みたいなよこしまな理由ではなく、実直に自分が花を愛でるために足が向くようになった。
 見た結果、春の花としてのピークはGWあたりに照準を合わせているのか、まだ園内は少し寂しかったが、それでも日常では見かけないような花も多くあり、なかなかに愉しめた。前々から思っていたけれど、やっぱり僕は円形の、平面的な花が好きだな。オオキンケイギクがそうであるように、コスモスやガーベラ、マーガレットやデイジーなど、要するにすべてキク科だけど、ああいうのがいい。鉢で育てようかな、なんて不意に思ってしまうが、たぶんしない。刺繍したいな、とも思い、そっちのほうが実行する可能性は高い。
 そんな春の日々である。

2021年3月26日金曜日

タイヤ解放

 スタッドレスタイヤを、普通のタイヤに戻す。軽自動車なので、義父に教えてもらいながら、自前でやった。タイヤの交換を自分でするという文化が車社会で生きる男たちの中には存在する、ということは知っていたが、まさか自分でやる日が来るとは思っていなかった。自分で嵌めたタイヤの車なんて、恐ろしくて絶対に乗りたくないだろうと思っていたが、必要に迫られれば人というのは観念してある程度のことはやってのけてしまうものだな、としみじみと思った。アクアスはその交換をしてから行ったので、まあ4時間以上運転して問題ないのだから、大丈夫なんだろう。それにしても車のことになると、本心なのかマウンティングなのか判然としないが、義父はやけに「車、メカニック、男、美学、俺」みたいな、そういう空気を出してきて、ホイールのことであるとか、ゴムの具合のことであるとか、やけにいちいち講釈を垂れてくるので、その時間が僕にとってかなり憂鬱だったりする。この程度の男のメカニック醸しでうんざりするのだから、戦争になり、徴兵されたら、僕は間違いなく心を病むだろうな、とこういう時間を過すたびに思う。まあタイヤ交換に関しては会得したので、来年からは義父を交えずファルマンとふたりで作業しようと思う。
 振り返ってみて、今年はスタッドレスタイヤを大いに活用した。山陰でも、「今年はスタッドレスにする意味なかったね」みたいな年もあるらしいが、それでいうと今年は、わざわざ安くない金額で購入した意味が、ちゃんとあった。スタッドレスでなければ死んでいただろう場面が多々あった。なので3月もいよいよ終わろうとしていて、普通のタイヤに付け替えられたことに、山陰ではそれを感じるポイントは数多くあるのだけど、だいぶ強い度合で、冬から春への季節の移行を感じた。これからの7ヶ月間ほどは、われわれは解放される。山陽ではずっと解放されっぱなしだったから、それが解放であると知覚できなかった。普通タイヤを履いている間、われわれは雪のつらみから解き放たれている。そういう観念の違いがある。

2021年3月25日木曜日

アクアス (8年半ぶり、2度目)

 春休みに入った子どもと、僕の休日が合致したので、浜田市にある水族館、アクアスへと赴いた。行ったのは2度目。前回は第1次島根移住が開始して間もない、2012年8月のこと。なので往時ポルガは1歳7ヶ月。ピイガはまだ存在していない。その当時は香川県に住んでいた三女(なんだかんだで誰にもいろいろな変遷があるものだ)が、夏季休暇で実家に戻ってきたタイミングで、三女は動物好きということもあり、一緒に行っていた。片道2時間弱かかるため、交代できるドライバーがいたら安心だということもあり、行くことにしたらしい。それでいうなら今回は交代要員はいなかったわけだが、東京から移住してきてまだ1ヶ月ほどの者と、それから8年半後の、島根と岡山でさんざん車に乗り倒している者とでは、片道2時間弱に対する印象がぜんぜん違うのだった。片道2時間弱は、レジャーのまあいい感じの距離であると思う。
 アクアスはやっぱり規模が大きく、見ごたえがあった。
 ブログには書かなかったが、先月末あたりにゴビウスにも行っていた。あれはあれでおもしろかったが、やっぱりまあ、入場料500円と1500円とでは違うな、という満足感があった。ゴビウスでは、8年前にはたしかにいたはずのエイが水槽にいなくなってしまっていて、「エイの裏側を見るとめっちゃ爆笑する」でおなじみのファルマンが肩透かしを喰らったのだけど、そこでもったいぶられたこともあり、今日のアクアスでは存分にエイの裏側を堪能することができた。しかもでかい。アクアスのエイ、めっちゃでかい。でかいエイは、面積が大きいのはもちろんのこと、裾野が広いと山は高いということなのか、厚みもすごいことになるということを知った。
 アクアスといえばショーということで、ひと通り見て回る。アザラシの紹介ショー、バブルリングで有名なシロイルカのショー、ペンギンのパレード、そしてアシカショー。平日で人が少なかったこともあり、どれもそこまでがんばらなくても、やけに近い位置から見ることができ、とても愉しかった。たぶん人口密度の低さが、生きものたちにも伝わっているのではないかというほど、平日の水族館は牧歌的な空気に包まれていて、生きものたちのかわいさや賢さに、癒されたり感心したり、ほわほわと心地よく時を過した。シロイルカのショーは、この水族館の目玉なのでもちろん素晴らしかったのだけど、あまり期待していなかった、帰る直前にたまたまタイミングが合ったから見ることにしたアシカのショーが、こちらの予想をはるかに上回るクオリティで、感動した。見る前は本当に、「シロイルカとかに較べてアシカって昭和っぽいというか、オワコン感があるなあ」などと嘗めていたのだが、始まってみたらアシカはめちゃくちゃ優秀で、芸達者で、とても優れたエンターテインメントだった。個人的にあのアシカに1000円くらいあげたい、とさえ思った。振り返ってみて、見た順番がよかった。最初にアザラシを見たのは正解だった。歩くだけのペンギンは別として、シロイルカとアシカに較べ、アザラシはそこまで芸が上手ではないようだった。たぶんこれはもう種としての能力の限界なのだろう。最初にそれを見たことで、尻上がりの構成になった。今回はアシカがとにかく発見だった。
 水族館の隣には、アクアスランドと銘打って、かなり大規模なアスレチック公園があった。これのために、アクアスに行く日は春の天気が悪くない日である必要があった。そして今日はその条件を見事に満たしていたのだった。というわけでこれも移住後初となる、大型の公園で遊ぶ、ということを子どもたちにさせてやれた。これも大いによかった。8年半前に来たときの写真を見たら、1歳半のポルガは、歩きもしたが、ベビーカーもまだまだ必要という頃だった。あの頃はアクアスランドの存在なんて、目に入りもしなかった。それが今回は、妹とふたりで放っぽって、両親はベンチで休むなんてことができるようになった。8年半前の自分たちのような、周りのファミリーを眺めながら、「楽になったもんだねえ」などとファルマンとしみじみと語り合った。
 そんな大満足のアクアスだった。いろいろとタイミングに恵まれた、とてもいいレジャーだった。

2021年3月24日水曜日

湯ったり

 ものすごく久しぶりに、「おろち湯ったり館」へ行った。
 島根県に住むようになったら、「おろち湯ったり館」へも頻繁に行けるようになるな、と思い描いていたのだけど、蓋を開けてみたらぜんぜんそうはならなかった。なぜそんなに行かなかったのかという原因については、説明をしようとすると、かなりプライベートな部分をさらけ出すことになるので、明かせない。現世の誰も読んでいないお前のブログが、いったい誰に対してなにを秘匿するというのか、という話ではあるが、であればこそ、自分が書きたくないことを書く理由もまた、一個もないはずである。
 前回に行ったのは12月のはじめのことで、これはファルマンの実家に僕だけが居候していた、あの(暗黒混沌)時期の序盤を指す。ただでさえ精神的にだいぶ来ていたこの時期の、平日の仕事が終わったあとで、救われるために僕は「おろち湯ったり館」へと参ったのだ。そうしたら、初めての平日夜の「おろち湯ったり館」はそれなりに混んでいて、「おろち湯ったり館」は閑散としていてのびのびできるところに魅力を感じていた僕は、それだけで少しショックを受けた。さらには、サウナに入ろうとしたところ、サウナ内にいた老人に、「ちゃんと体を拭いて入って!」と少し強い口調で窘められる、という出来事も重なって、すっかり心が折れてしまった。行かなくなった理由は、それだけではなくて、もっと根深いものがあるのだけど、このたびそういった諸々のことが、季節の移ろいとともに、ようやく僕の中で解消された感があり、満を持して平日の身が空いた日中に、3ヶ月以上ぶりに赴くことができた。移住を経て、岡山では日常的にしていたことが、こちらでは余裕がなくてなかなかできずにいて、でもひとつひとつ、項目にチェックを入れるように、日常生活が回復していく流れの中で、このようやくの「おろち湯ったり館」行きは、自分の中でなかなか感慨深いものがあった。やっとここまで整ったかと。
 平日の日中の「おろち湯ったり館」は、やはりとても空いていた。運営会社の事情も考えない勝手な理屈だが、「おろち湯ったり館」は人口密度が低くないといけない。繁盛していたらダメなのだ。
 温浴の前に、まずはプールゾーンへ進んだ。15メートルほどのプールなのだが、何度も往復し、思う存分に泳いだ。12月のあの日は、慣れない仕事終わりだったこともあり、プールへは行かなかった。なのでこれが、今年初泳ぎであり、島根移住後の初泳ぎだった。なのでざっと約4ヶ月ぶりにもなる水泳は、全身がピキピキと覚醒するような感覚があった。窓になっている天井から、青空と光が水面へと注ぎ込まれ、いろんな意味で本当につらかった冬が終わったことを、しみじみと感じさせた。
 そのあと温浴ゾーンへ。体を洗ったあと、あの日以来のサウナに入った。入る前、もちろん体はきちんと拭く。基本的にいつでも拭くのだ。あの日はたまたま、いろいろ戸惑っていただけなのだ。そんなときに少し強い口調で男の人に注意されたのだ。あの日の僕は本当にかわいそうだったと思う。サウナに10分ほど入ったあと、水風呂。外気浴さえできれば、水風呂って実は必要ないんじゃないかと思っていた時期もあったが、今はふたたび水風呂に価値を見出している。水風呂のあとは2階の露天に上がり、外気浴。この2階が、「おろち湯ったり館」では冬の間、雪や凍結のために閉鎖される。それが12月から3月中旬のことで、つい先日、ホームページに「2階再開」の知らせが出たことが、そのまま春のお告げであり、僕の心の雪解けでもあった。かくしてこうして来る気になった。そして青空の下、ベンチに全裸で横たわった。この心地よさたるや。陽射しを浴びて、全身からセロトニンが放出されているのが手に取るように分かる。時おりそよ風が吹き、陰嚢を撫ぜる。外壁の上から少し覗ける桜は、4分咲きといったところ。ウグイスの鳴き声は、まだあまりこなれていない。精神的にも肉体的にも、強張っていた部分が、ほぐされ、浄化されていくのを感じた。暮しの中で、こんなにも浄化を実感することはそうそうない。大抵はそんな「気がする」程度のことを繰り返して、ごまかしごまかし日々をやり過ごしている。しかしここはそうではない。目に見えての回復がある。やっぱり「おろち湯ったり館」のヒーリング力は半端ないな、と思いを新たにした。
 そんなわけで存分に堪能した「おろち湯ったり館」だった。次はこんなに間を空けずに行きたい。今回は4ヶ月分の「癒されポイント」が貯まっていたので余計に感動が大きかった。しかし今後こんなにポイントが貯まっている状態はなかなか発生しない気もする。それならそれでいいと思う。ほぐされる余地が少ない日々に、越したことはない。

2021年3月21日日曜日

ROUND1の友達たち

 相変わらずぜんぜん友達がいないのに、「友達がいない」という話をせずにいた。どうしてだろうと考えて、たぶんもう僕にとって、僕のこの状態は、「友達がいない」じゃないからだと思った。なんのトピックスもない、「普通」なのだ。脊椎動物であるとか、哺乳類であるとか、そういうレベルで、僕には「友達がいない」。あまりにもいない。
 岡山でも友達はいなかったが、それでも6年半勤めた縫製工場で、5人くらいとはLINEを交換した。結果的に実現しなかったが、「いつかROUND1に行こうよ」という話もしていた。最終的に人類初の800年を生きる僕が、6年半かけて築き上げた、鍾乳石のように希少で尊いそれは、島根への移住でぽっきりと折れた。もっともあくまで彼らとは職場での付き合いだったわけで、移住は関係なく、会社がなくなった時点で関係は切れていた、というのが実際のところだ。5人のうち、僕が島根県に移住したことを知っているのは、年末にたまたま連絡をくれたひとりだけだ。だから「友達がいない」ことと島根移住に関連はない。そのせいにしているだけだ。
 しかしその一方で、上の文の中にはひとつ、「友達がいない」トークにおけるとても大事なファクターが含まれている。それは「いつかROUND1に行こうよ」の部分で、妹尾にあったあの場所に、僕は7年で結局いちども足を踏み入れることはなかったのだけど、それでもいざというとき、その土地にROUND1があるかどうかというのは、友達作りにおいて重大な要素だと思う。鶏が先か卵が先か、みたいな話になるけれど、友達だからROUND1に一緒に行くし、ROUND1に一緒に行ったら間違いなく友達だとも思う。37年間で1回も行ったことがないけれど、ROUND1というのはそういう場所だろうと思う。そして島根県には、ROUND1がない。出雲にないのはもちろんのこと、松江にもない。さらには米子にもない。山陰に存在しないのだ。もっともたとえ米子にあったところで、かつて茶屋町に暮しておきながら妹尾のROUND1に行くことのなかった僕が行くとも思えないが、ROUND1というのは実際に行くとか行かないとかいうものではなく、心のよすがとして救われるという性質のものなので、それがないこの土地では、僕の心はいよいよ途方に暮れる。ROUND1のない世界で、いったいどうやって友達ができるというのか。
 岡山でも僕には友達ができなかったけど、それは僕が妹尾のROUND1に行かなかったからで、たぶん行ったらそこには、閉じ込められていた僕の友達たちがわんさかいて、いつまでも終わらないバブルサッカーをし続けていたに違いない。僕はついぞ彼らを救うことはなかった。そのことに思いを馳せると、たぶんいまでも僕が迎えに来る日を夢見てバブルサッカーを続けている彼らには申し訳なさを覚える。島根にはそもそもそんな状態がどこにもないわけで、友達ができる目が完全にない代わりに、すっきりとした安心感もある。そうだ、このすっきりとした安心感は、そこに由来するのか。ここで暮らす以上、僕はもうROUND1の友達たちのことで思いわずらわなくていいんだ。それならいい。それならばいいよ。

2021年3月15日月曜日

雑魚風邪

 いま、新型コロナウイルスに感染して治療をしている人がひとりもいないといわれている島根県で、ごく普通の風邪的なものを引いている。風邪というのもおこがましいと感じるような、ファルマンいわく「雑魚菌」で、高熱とか寒気とかそういうのは一切なく、ただ喉がイガイガしている。喉のその感じは、一般的な風邪の際、激しい格闘の末のエンディング的に現れるやつであり、ただそれだけが出てくるということは、菌があまりにも弱く、当人が知覚する間もなく体がやっつけてしまったということなのだろう。そんな、そもそも始まっていないようなストーリーならば、エンディングもなければいいと思うが、なぜかそこだけはやってきた。ネバーエンディングストーリーならぬ、ジャストエンディングストーリーだ。
 菌の感染ルートは、保健所に追跡してもらうまでもなく、子どもが学校でもらってきたといういつものパターンで、ポルガが先だったかピイガが先だったか、これはもはや定かではないのだけど、それからファルマンに渡り、そして最後に僕なのだった。家の外では常にマスクをし、そして殺菌への意識の高いこの環境において、感染ルートなんてもはやそれしかない。特にピイガの撒き散らしはすさまじく、このご時世にくしゃみをそんなにノーガードでぶっ放す人間があるかよ、というようなことを、4人でテーブルを囲む食卓でしたりするので、それをされてはもうひとたまりもない。ピイガのそのさまを見て、「思い切りくしゃみをする人」というのを久しく見ていないな、ということを思うと同時に、頭の中には富岳のCG映像が浮かんだ。ニュースなどで去年からたびたび目にする、マスクの効果などを検証するための、あの映像。あの赤とか黄色とか青の玉が、現実のピイガの口や鼻からも、たしかに出ているように見えた。もちろん錯覚なのだが、なんか本当に見えたような気がした。人類は新型コロナウイルス禍を経て、新しい能力を獲得したのかもしれない。ピイガがくしゃみをするたびに、僕とファルマンの間で「富岳だ」「富岳だ」といい合うのが流行っている。富岳って、きっとくしゃみでどんなふうに菌が拡散するか以外に、世の中のいろんな計算をしているんだろうと思うが、本当にそれしか印象がないため、そのうち「くしゃみ」という言葉は「富岳」に取って代わられるかもしれないと思う。

2021年3月12日金曜日

ハンドメイド漫談

 売るのは作品ではなく理念だ、と不織布マスク風布マスクを出品したという記事の中で書いた。なるほど理念なだけあって、売れない。理念というのは、購われないから理念として高潔なのであって、購われたらその時点で理念ではない。だから売れなくて正解だ、とも思うが、その一方で、お前はminneに登録して一体なにをいっているんだ、とも思う。
 理念を売る、ということで思いついたのだけど、マスクは顔が隠れるのが欠点で、それの打開策としてフェイスガードなんかも試みられているけれど、しかしマスクに較べると感染防止の効果が低いとか、そういう問題があるわけだが、その解決方法として、「透明の布で作ったマスク」があればいいのではないだろうか。透明の布なんてこの世にないだろうと思うかもしれないが、実はあるのだ。ただしこの透明の布が透明に見えるのは、新型コロナウイルスに感染していない人だけで、感染している人が見ると、ドブみたいな色が浮かび上がる。だからこの透明マスクが透明に見えている間は感染していないということになり、一種の検査にもなる。……いや、違うか。それをいうなら「新型コロナウイルスに感染していない人にしか見えないマスク」か。minneの商品ページには、なにも載っていないただのテーブルが写し出され、注文すると空っぽの封筒が届く。でも実はあるんです。新型コロナウイルスに感染していない人にしか見えないマスクが。えっ、あなた、このマスクが見えないっていうんですか。まさかね。さあみなさん、健康な人だけに見えて、着けることができるこのマスクを着け、春の陽気に誘われ、どこへでも出掛けちゃいましょうよ。……という、これを本当にやったらminne出禁になるんだろうな。
 ハンドメイドといえば、2月にわれわれ一家と義母と義妹で出雲大社に参拝に行ったのだけど、そのとき義母から指摘されてハッとしたこととして、われわれ一家4人はそのとき、全員が僕のハンドメイドのバッグを持っていたのだった。客観的にそのことに気づかされ、「ちょっと変な一家!」と思った。そしてそのとき引いたおみくじの、「人に交はるには、和譲・恭敬・寛恕を旨とすべし。仮にも驕慢の態をなすべからず。」というフレーズは、よほど定着力が低いのか、本当にすぐ心から剝がれそうになるのだけど、心に刻み付けるために、おみくじそのものを壁に画鋲で貼って、ことあるごとに眺めている。和譲・恭敬・寛恕。驕慢ダメ。和譲・恭敬・寛恕。驕慢ダメ。そして僕はminne文法を放棄し、理念を売る。もしかするとこのおみくじは、馬鹿にしか見えないのかもしれない。

2021年3月11日木曜日

10年

 10年である。丸10年だ。
 10年という歳月を前にして、表現は陳腐になる。あっという間のようにも、果てしなく長かったようにも感じる10年。年末の、1年を漢字1文字で表すやつに無理があるように、10年を何百文字かほどの文章で表現するのも不可能だ。
 10年で自分はそこまで変わっていない、という気持ちを、前向きな意味でも後ろ向きな意味でも抱いているけれど、27歳が37歳になっていて、0歳児だった長女が10歳になっていて、次女もできていて、都民だったのが島根県民になっていて(ただし10年間で最も長いのは岡山県民時代だ)、それに合わせて職もずいぶん変わっていて、実際はだいぶ変わっている。客観的に見て、変化が大きかったほうの部類に入るとさえ思う。
 僕のこの10年間の変遷は、東京から島根への最初の移住の理由として、たしかに東日本大震災の放射能禍はあったけれど、実行に移したのは1年半後である2012年の夏だし、なにより住んでいたのは練馬区だったわけで、それで震災を理由にするのは実はだいぶおこがましい。そこから流れ流れて現在2度目の島根県にたどり着き、いまの生活はとても気に入っているのだけど、圧倒的な海や空や山に心が洗われたり、地物の魚や肉や野菜がおいしかったりする、こういう暮しが、10年前、かの地では突然に奪われたのだと思うと、当時よりもはるかに差し迫った気持ちで、そのつらさが理解できる。田舎の人が田舎を奪われたら、どうしようもない(書いていて思ったが、それに対して都会の人たちは、今回のコロナ禍で、都会暮しのアイデンティティである、つるむことを奪われたので、どうしようもなくなっているのかもしれない)。たぶんこれは10年で、27歳が37歳になり、花のつぼみを愛でたり河の流れを眺めたりすることができるようになったから、感じられるのだと思うが、自然の恩恵って、とてつもなく尊いのだ。結局のところ、人間なんていったって生きもののひとつなんだから、どうしたって自然にひたすらおもねって生きていくのがいちばんだな、ということを近ごろしみじみと感じる。10年前は、それが奪われたのだ。いま島根に暮していて、そのことの絶望をまざまざと思い知る。
 もちろんその一方で、地震や津波が奪った命のことも思う。これは都会も田舎も関係ない。都会に住んだり、田舎に住んだりというのは、家族のしあわせを勘案して選択することだ。なにより家族の命ほど大事なものはない。このこともまた、10年前よりも僕の理解は深まっていると思う。
 今日は労働が休みだったので、14時46分にテレビの中の人たちと一緒に、ファルマンとふたりで黙祷をした。やがて娘たちも、学校で黙祷をしたといって、家に帰ってきた。書き出しから締めまで、本当に陳腐な言い回しになってしまうのだけど、こうして家族で無事に日々を送れていることに、深く強く、感謝をして生きていこうと思う。

2021年3月9日火曜日

娘たちの父

 娘たちの言葉が聞き取れない。年々聞き取れなくなっている。
 ポルガは人と話すことを億劫がるところがあり、自分の発言についても、自分がしゃべりたいからしゃべるのであって、相手の耳に届くかどうかはどうでもいい、みたいに思いっている節がある。そのため言葉のおしまいのほうはもちろんのこと、ひどいときには話の最初の3文字くらいしか聞き取れないときもある。しかも早口なのだ。それなのにポルガの主な話し相手である母(ファルマン)や妹は、これまでの日々で培ってきた特殊なスキルがあるものだから、それでも聞き取れてしまえる。そのためポルガのそれはいつまでも修正されない。それどころかますます増長する。僕はそこまで子どもと会話をしてこなかった父親ではないと思うけれど、それでも理解には限界があり、ましてや異性ということもあるのか、娘が話していることの内容の取れなさは、どんどん加速してきている。しかし世間の人々は、そんな僕よりもさらにポルガの言葉を聞き取る能力は低いわけで、せめて僕が防波堤となり、ポルガの「ちゃんと喋らなさ」を正していかねばならないだろうと思う。そのため聞き取れないときは、ためらうことなく「そんなんじゃ聞き取れない。もっとちゃんと喋りなさい」と注意している。しかしそうやって注意していて、たまに、「本当にポルガの言葉は世間一般から見て聞き取りにくいのか?」と疑問に思うことがある。そもそも僕は、引け目というほどではないし、健康診断とかで異常といわれたこともないけれど、子どもの頃に長く中耳炎だったこともあって、聴覚にそこまでの自信を持っているわけでもない。視力のように、1.0とか、0.2とか、そういう尺度があるとするならば、まあまあ悪いほうなのではないかな、という気がしている。そんな僕だから聞き取れないのではないか、という一抹の疑念がある。ファルマンとピイガは話を聞き返さない、というのがそれをますます搔き立てる。もしもそうだとしたら、僕は37歳にして早くも「耳が遠くなって苛々している人」ということになる。それはとても怖い想像だ。また「ましてや異性」ということを書いたが、異性でしかも世代が違うということが、話の内容はもとより、根源的な周波数的なものの違いを生んでいて、それもあって聞き取れないのではないかとも思う。もしもそうだとしたら、娘の代でそうなのだとしたら、娘たちの生む子ども、すなわち孫の世代になったら、祖父となった僕は、いよいよ言葉がぜんぜん聞き取れなくなるのではないか。そして孫の言葉がぜんぜん聞き取れないものだから、ずっと苛々している老人になるのではないか。そう考えると本当につらい。
 冒頭に「娘たち」と書いた。ここまではポルガの話である。じゃあピイガはどうなんだといえば、ピイガはしゃべるのを億劫がることはない。それどころか、起きている間はずっとしゃべっているというくらいおしゃべりである。しかもそれのボリュームがすさまじく大きい。腹から声を出し、すぐ隣にいるポルガに向かって、体育館の端から端まで届くような声でしゃべる。僕は大きい音が嫌いなので、同じ空間にずっといると、頭がどうしようもない状態になって、あえなく避難を余儀なくされる。だからこれはこれで、話を聞くことができない。
 かくして不明瞭早口と大音量という、ふり幅の大きなふたつの案件が、僕と娘たちとの会話を阻む。そうして僕はどんどん、娘たちとの会話を失っていく。なるほど娘しかいない家庭の寡黙な父親というのはこうやって醸成されていくのか、と自らの身をもって得心した。それはそうだ。どうせ成り立たないのだから、会話をする機会はどうしたって減る。これはこんなにも避けようがない、仕方のないことだったのか。

2021年3月7日日曜日

minneへの出品は趣味の世界

 久しぶりにminneに出品をした。「不織布マスク風の布マスク」である。
 不織布マスク不足の去年、布マスクを作って出品することには抵抗があり、販売せずにいたが、今はもう不織布マスクが以前と変わらない値段で店に並ぶようになったので、自分の中でゴーサインが出た。なぜわざわざ需要がなくなってから出品するのかと我ながら思う。minneはいちおう小遣い稼ぎのためにやっているのだが、自分でも感心するくらい商売が下手だとしみじみ思う。ファルマンにもあきれられたので、「俺はマスクを売るんじゃない、理念を売るんだ」とうそぶいた。そして商品の説明文で、去年からのマスク狂騒について、思いの丈を書き連ねた。これまでの商品では、minne文法というか、minne世界観というか、そういうものに沿った、おもねった文章をつけていたけれど、そう媚びたところで僕の作ったものがそうそう売れるわけではないし、それならばもう自己表現のほうに舵を切って、書きたいことを書きたいように書くことにしよう、と開き直ったのだった。「実際のあなたのことを知っている人なら分かってくれるかもしれないけど、知らない人は、絶対にこんな面倒臭そうな人からマスクなんか買いたいと思わないよ」とファルマンはいった。僕もそう思う。
 面倒臭そうな人ついでに、トップ画像に合成した惹句として、「新型コロナウイルス対策への意識が高いことで知られる島根県で作りました。」というフレーズをはじめは構想していた。46道府県で唯一、都と国に楯突いたあの島根県ですよ、という意味である。県知事が聖火リレーの中止を検討したことと、僕のマスクには実際はなんの関係もないが、まあなんとなく東京で作ったマスクよりも島根県で作ったマスクのほうが穢れてないように思う人もいて、耳目を集めるのではないかと思った。意外と貪欲な商売っ気もあるのだ。しかし出品する段になって、minneのマスク販売規定に、「特定の病名やウイルス菌の表示や、それらに対する効果・効能等の表記は避ける」というのがあることを知り、泣く泣く前半部を削り、「島根県で作りました」のみにした。これだけではこちらの真意にたどり着いてくれる人はあまりいそうにない。たぶん島根県知事の一連の問題提起も、すぐに風化してしまうのだろうし。これならば「出雲大社のお膝元で作りました」のほうがよかったかもしれない。ウイルス対策が神頼みじゃダメだろうとも思うが、そんなこといったらアマビエはどないやねん、という話だ。
 出品して2日ほどが経つが、購入もなければ「いいね」もない。凪いでいる。まあこれは仕方ない。もう世の中、布マスクのバブルは弾けたのだ。弾けたから参戦したのだし。家賃が掛かるわけじゃなし、売れたらそれこそ儲けものという感じで、趣味に生きようと思う。今回、minne文法ではない説明文を書いたら気持ちがよかったので、これから出品するものは全てああいう感じの、理屈っぽくて、面倒臭そうな人っぽい、すなわち僕本来の文を添えることにしようと思った。売るのは作品ではなく、理念だ。

2021年2月26日金曜日

春先雑談

 2月が終わる。2月というのはやっぱり物理的にも精神的にも短いのだが、それでも今年の僕の2月はなかなかに密度が濃かった。
 2月といえばバレンタインデー、ということで、妻子らからチョコレートをもらう。3人の中で最も(あるいは唯一)女子力の高いピイガは、ケーキなのか、あるいは溶かして固めるだけなのか、なんかしらの手作りのものを作りたかったようだが、今年は毅然とした態度で断った。そして「既製品の、既製品といってもショッピングセンターのバレンタインフェアとかで売っている箱だけ豪華なやつではない、ガーナの、安い店で販売価格160~180円くらいの、冬季限定のおいしいやつ、あれを俺の好きなように1000円分くらい買わせてくれたらそれでいい、それが本当にいちばん嬉しい」と主張した。バレンタインはこれからもずっと続くので、子どもたちが多感な時期になる前に、ここらで主張を通しておくべきだと判断した。20歳で付き合い始めた初めてのバレンタインで手作りキットのトリュフチョコを僕にプレゼントし、「泥団子みたいだ」といわれたことを、いまだ毎年いいつらむファルマンと、バレンタインデーなどという行事が意識に入っていなかったポルガは、すんなり「あそう」と受け入れ、ピイガは少し「えー」といったが、少しだった。かくしてバレンタイン以降は、ガーナのおいしいチョコレートが充実していて、嬉しい。ガーナのおいしいタイプのチョコレートが、僕は世界中のチョコレートをすでにいちどぜんぶ食べたけど、結局いちばんおいしい。
 スマホユーザーになった、ということは前の記事に書いて、これまではファーウェイのタブレットだったが、それを持ち始めたあたりから、やけにファーウェイが攻撃されるようになり、別にユーザーには関係ないといえば関係ないのだが、なんとなく居心地の悪さを感じていたため、今回はメーカーを替えた。そうしたらやっぱり微妙に操作性が違い、はじめは戸惑った。もっとも同じファーウェイのタブレットでも僕のとファルマンのでは操作が違ったし、そもそもタブレットとスマホなのだから、そういう意味でも違いがあるのは当然かもしれない。いまはまあまあ慣れた。なにぶんそんな高度なことをするわけでもないし、スマホというのは基本的に、慣れさえすれば誰にでも使いやすいようにできているのだ。ただしLINEの文字入力、あれは慣れない。慣れないというより、物理的にキーが小さすぎる。画面が小さい分、キーが小さくなり、どうやったらあんな、ひとつのアルファベットの領分が1平方センチメートル以下のキーを、正確に押せるというのか、と思う。そんなわけで、まだ基本的にファルマンとしかLINEのやりとりは発生していないのだけど、誰かとちゃんとなにか文面をやりとりするときは、どうしたってキーボードを接続することになるだろうな、と思う。タブレットで使っていたキーボードやマウスは、新しいスマホでもすぐさまBluetoothのベアリングを行なった。ファルマンに「スマホでもそれするんだ!?」と驚愕されたのだけど、いや、スマホで画面が小さくなったからこそ、逆にキーボードという話なのだ、と思った。だからやっぱり重ねて主張するのだけど、僕のこのスマホは、世間一般のスマホとは一線を画す(13年の歴史がそれを担保する)、ちょうどスマホの形をした簡易パソコンなのだ。
 僕の生活と直接は関係ないことだが、島根県知事がかっこいい。めちゃくちゃかっこいいじゃないか。まだ島根県民になって2ヶ月のペーペーだけど、あの知事が知事になった選挙にも関係してないけど、でも誇らしい。ヤフーの記事のコメント欄を見ると、みんな島根県知事のことを大絶賛していて、「島根県民が羨ましい」などといっている人もいて、鼻高々である。そうです、あたすが島根県民です。ただ、たぶん関東からまったく外に出たことがない人なんだろうけど、「島根県はこんな立派な知事がいるから感染を低く抑えられているのだ。それに較べて東京は……」ということをいっている人がいて、さすがにそれに関しては、「いや、そこは、単純に人口密度……」と思った。
 そろそろ3月ということで、数日前に、あれ、もうこのまま春になっちゃうんじゃないの、と思うくらい暖かい日もあった。でもそのあとしっかり寒波もやってきて、毎年のことながら(もっとも山陽時代よりも寒波の度合が激しいので感じ方が強い)、繰り返しだな、と思う。最近は日々のそれに一喜一憂し、そんなことばかり話しているため、ファルマンの口癖がすっかり「三寒四温」になってしまった。「もうだいぶあったかくなったね」「三寒四温やで!」、「やっぱり寒さもぶり返すんだね」「三寒四温やで!」、と、もはや持ちギャグのようになってきている。持ちギャグなので、こっちもフリたくなってきて、「なんかこうして、寒さとあったかさがさ……」「三寒四温やで!」、「春ってなかなかさ……」「三寒四温やで!」、などと、どれだけ短い文面でファルマンから三寒四温を引き出せるかという競技のようになってきている。
 そうして春先ということで、毎年の、あっち方面の報告なのだけど、今年はいろいろあり、環境も変わり、1月には帯状疱疹なども出て、いよいよ危ういのではないか、年齢的にも限界が近いのではないか、とうとう連続記録が途切れるのではないかと危惧されたけれど、どっこい、なんのことはない、きちんと芽吹きました。いやむしろ、冬がつらかった分だけ跳ねる力も大きくなるのではないか、これはその結果ではないかと自己分析しているところです。春は本当にちんこが愉しくなりますね。ちんこ愉しき春がいよいよやってきます。

2021年2月22日月曜日

スマホへ

 スマホの人になった。「さんざ遠回りしたが、もうこの次はさすがにスマホだろう」と、ついこないだに伏線を張っておいたけれど、結局のところ機運が高まっていたということだろう、そのあとわりとすぐに実行したのだった。
 インターネットで、SIMフリーの、安くてそれなりに評判のいいスマホを検索し、まあこんなところだろうというものを選んで注文したら、その翌々日には家に届き、そしてこれまでのタブレットからそちらへSIMカードを取り替えたら、あっけなく僕はスマホの人になった。いざやってみたら、本当にあっけなかった。
 iPhoneが日本に登場したのは2008年だというので、25歳のときか。それから僕は13年間、スマホに抵抗し続けたことになる。果たしてこの13年間に渡る抵抗に、意味はあったのだろうか。他人から見れば、たぶんまるでないということになるだろう。しかし本人からすれば、それはやっぱり必要だからそうしていたわけで、意味はあったのである。僕という人生を生きている僕にとって、守らなければならないなにかが、その13年間によって守られたのだと思う。
 もっとも「スマホの人になった」といいつつ、その前にすでにタブレットの人ではあったわけで、SIMカードを入れ替えただけで容易に乗り換えられたことが示すように、タブレットとスマホは地続きの、同じ経済圏、なんなら行き来にパスポートの提示も必要ないような、そんな関係性にあるのではないか、つまり僕はタブレットを持った時点(ちなみにこれも「ガラケーとタブレットの2台持ち期」と「タブレットに電話機能も集約させたタブレットだけ期」のふたつの時期があるので話がややこしい)で、すでに講和条約のテーブルに就いていたのではないか、という気もする。
 しかしながら、もはやなにを守りたいのか、亡びゆく国の最後の兵のごとく、自分たちがなんのために戦っているのか、そもそもの信条を見失っている感はあるのだけど、それでも主張しておきたいこととして、僕はタブレットを、ノートパソコン的な流れで持っていたのだ。スマホの流れではなく、それは僕にとってあくまでパソコンの代替であって、であればこそ、タブレットとガラケーの2台持ちという状態も生まれた。逆にその状態の時期があったことが、僕がタブレットをスマホの文脈で持っていなかったことのゆるぎない証左であるともいえる。
 そうしてノートパソコンと携帯電話を同時に持っていたのだけど、どうやらこのご時世、携帯電話の機能はノートパソコンに集約できるらしいぞ、ということになり、そうした。そうか、そう考えればタブレットだけ期もまた、やはり僕はぜんぜんスマホの軍門に降っていなかったということになる。だって僕はノートパソコンで電話をしていただけだったのだから。これはスマホとはぜんぜん意味合いが違う。見た目が似ていても、イモリ(両生類)とヤモリ(爬虫類)くらい違う。
 さらにいえば、そのノートパソコン文脈のタブレットが、大きすぎてちょっと不便だということでスマホに乗り換えることにしたわけだけど、こういう経緯を経てスマホへと辿り着いた僕においては、スマホもまたスマホではないということになるのではないか。僕にとってこれは、「気軽に持ち歩けるようにしたノートパソコンの、画面が手のひらサイズになったやつ」だ。世間から見ればそれはスマホなのだけど、僕にとっては違う。なぜなら、経たからだ。然るべき工程を経たので、僕はそう主張することができる。あなたがたとは違う。ガラケーからスマホへ、理念なくホイホイ乗り換えたあなたがたとは違う。
 そうか、それを言えるようにするための13年間だったのか。じゃあやっぱり必要だったな。
 タブレットからスマホになって大きく変わったところは、電話のとき、スピーカーではなく顔に機械を当てて話すスタイルになったという点だ。そうだそうだ、ガラケーを手放して久しいので忘れていたけれど、電話って、だいたいこんなふうに耳から口までのサイズで、受話器みたいになっているものなんだよな。スマホでの電話の演習ということでファルマンと会話をし、「俺いま機械を耳に当てているんだよ」と伝えたら、「はあ? なにそれ?」と旧時代の人に不思議がられた。ちなみにファルマンは当座のところ、タブレットを替える予定はないため、まだしばらくはスピーカーでの通話を続ける(外出しないのでまったく問題がないのである)。とはいえこれが旧時代なのかどうか、もはや判らない。固定電話の受話器の流れを汲んでいないのだから、むしろ新時代のような気もする。われわれはわれわれ固有の時代を切り拓いて生きていこうと思います。

2021年2月16日火曜日

出雲大社へ

 遅ればせながら、出雲大社に参った。1月は混んでいただろうし、そもそも生活のほうがそれどころじゃなかったので、気づけばこんな時期になってしまった。もっとも後者の理由は単なる言い訳で、結局は近いと意外と行かない、というよくある話だ。実家に住む三女もまた、「出雲大社に行きたいんだけどなー」ということを1月から言っていて、そして未だ行っていなかったので、我が家が行くついでに誘ったら、義母とともに現れた。本当に、そういうきっかけがないとなかなか踏ん切りがつかないんだよな。
 出雲大社は2月でもなかなかの人出だった。もっともその「なかなかの人出」は、普段あまりにも人出のない世界で暮している人間の感想であり、正確に言うならば「閑散としていない」くらいの度合だろうと思う。
 ちなみに我が家としては、これは初詣ではない。まだ倉敷にいた三が日に、近所の稲荷神社に参った。そしてこのときに引いたおみくじが、これから島根での新生活が始まる期待感を一気に萎ませるほど、あまりよくない文面だったので(即刻境内に巻き付けたのでもはや内容は覚えていないけれども)、そのリベンジとして今回改めておみくじを引いた。地方裁判所で有罪だったから控訴して最高裁判所で再審議、みたいな感じだ。
 その結果、控訴するものだ、一転とてもいい内容だったのでホッとした。いい内容だったので持ち帰り、手元にあるので引用する。「運勢」の欄には、「本年は、運気開発の時期であり、これより好縁に結ばれる運に進む。進退共に障害なく、百事を進んで行うことは吉である。一層に信心しなさい。」とあり、これこれ、新生活にあたってこういうのが欲しかったんだよ、と思った。さらに「訓」の欄には、「人に交はるには、和譲・恭敬・忠恕を旨とすべし。仮にも驕慢の態をなすべからず。」とあり、この言葉には大いに思い当たる部分があり、胸に突き刺さった。神様はどうやら俺のことを見ているな、などと思った。今年の目標は、驕慢の態をなさないこと。そして和譲、恭敬、忠恕を旨とすること。そういう人間になっていこうと思う。人と交はるために。なるほど誰も僕に手取り足取り教えてくれなかったけど、これこそが人と交はるコツっぽいな、と腑に落ちた。
 そしてこの文面を見て思い出したのだが、先日ノート類の整理をしていたら、1ページに「業は着々と生成発展の域に進む」と自分の字で繰り返し書かれているノートがあり、「ひゃあ」と恐怖を抱いたのだけど、このフレーズもまた、出雲大社のおみくじだった。2017年のこと。振り返ってみて、2017年が業の生成発展の域に進んだ年だったかどうかは定かではないけれど、どうやら僕は出雲大社のおみくじに感化されやすいらしい。なんでだろう、言い回しが漢文っぽいからかな。
 そんなわけでいい出雲大社参拝だった。賽銭を入れるポイントが多すぎて、財布の小銭という小銭が駆逐されたけど、それに見合うパワーを頂戴した感がある。今後もちょいちょいご挨拶に伺おうと思う。せっかく地元なのだから、出雲大社を妄信して生きていこう。

2021年2月15日月曜日

干支4コマ2020完走報告

 というわけで、なんとか「干支4コマ2020」を完結させることができたのだった。
 後半スタートの7話目に書いたが、去年の3月に投稿した前半部から、数えたら270日が経過していたのだった。その270日、コロナ関連はもちろんのこと、私生活においてもあまりにもたくさんのことがあり、そういう意味でねずみ編は非常に感慨深い干支4コマになった。
 270日前の前半部を読み返すと、4コマ漫画の宿命だけど、時事ネタが現在もうすでに古くなっているのを感じる。「宮迫がいない」というのは3月初旬に行なわれた「Rー1ぐらんぷり」の司会について言っているのだが、宮迫がいないテレビはすっかり日常になってしまい、もはやピンと来ない。「東京事へ……」というのは、新型コロナが流行し、ありとあらゆるイベントが中止になるなか、ライブを決行して物議を醸した東京事変のことなのだが、みんなあれだけ怒ったわりに、年末には紅白歌合戦に堂々と東京事変として出場していて、ああありとあらゆることは、渦中にあるときは大ごとだけど、100日くらい過ぎたらどうでもよくなるんだな、としみじみと思った。この「東京事へ……」というフレーズは後半にも引き継がれ、東京オリンピックについて語る際に避けて通れない椎名林檎のことへと話を展開させた。それにしても「しいなりんご」がアナグラムで「ごりんしない」というのは、30年後くらいに都市伝説みたいになってそうなエピソードだな、と思う。後半は終わったばかりの「麒麟がくる」をモチーフにし、これもまた実に瞬間風速的な時事ネタだな、と思う。最後の「三年後――」ももちろん「麒麟がくる」のオマージュである。「干支4コマ2020」なのに越年してしまった今年のグダグダを逆手に取り、もういっそ2024年(辰年)まで時代を進めてしまった。凱旋門とエッフェル塔の写真はフリー素材のものを使用させてもらった。大オチに瀬戸大也を持ってきたのもよかったと思う。我ながら、この混沌とした年の4コマをうまく着地させたと思う。そしてなにより、今年の干支4コマはタイトルデザインがよかった。もうタイトルデザインだけで成功は約束されていた。オリンピックを、これほどゲスな目で見る人間は、僕を除けばあとはトーマス・バッハくらいのものだろう。
 あとそうだ、どうしてもこれだけは言っておかねばならないのだった。12話に収まらなかったので泣く泣くカットしたのだけど、今回の主人公のねずみは、なぜベストみたいなものを着ていたのかと言えば、これはもちろん「ねずみくんのチョッキ」から来ていて、(ねずみだからチョッキを着ているんだな)と読者は自然と受け入れたに違いないが、それについて「え? これですか?」「ねずみだからチョッキを着ているんだろう、って?」「ちがいます」「ジレです」という4コマの構想があった。そのためにねずみはあの恰好をしていたのだ。カジュアルウエアにおける長めのジレって、なんともダサくて、またそのそこはかとない見た目のダサさと、「ジレ」という言葉の間抜けさが、すごくツボなので、「ジレです(笑)」というのは僕の中でかなり満を持したネタだった。しかしながらファルマンに、「あれは実はジレなんだよ」と話したら、「ジレって何?」という答えが返ってきたこともあり、ジレのことを滅法おもしろがっているのは俺だけなのか、と思って途中で止めることにした。これはいい判断だったと思う。なのであれは、ねずみだからチョッキを着ている、という単純な小ネタとして受け入れてくれて構わない。
 「麒麟がくる」が終わり、「青天を衝け」が始まり、僕の干支4コマもようやくねずみから牛へと移行する。とはいえもちろんすぐには始まらない。今年も間違いなく時事はいろいろ混沌とするので、この時点で始められるはずがない。ただし越年はしないつもりだ。ちなみに今年の牛編をもって、トラから始まった干支4コマは、ひと回りということになる。ひと回り! 「ひとりトラしてべっぴんさん」という思いつきから始まったこの企画も、コツコツと続け、12年ということだ。感慨深い。完成したら私家版として1冊にまとめて製本しようと思う。

2021年2月6日土曜日

暮し遠回り

 新しい住まいが本当に快適で、移住をするとなると土地柄とか利便性とか、生活にはいろいろ考慮しなければならない要素があるけれど、とはいえやっぱりいちばん大きいのは住まいだろう。その点、ここは本当にいい。日々そのことを噛みしめながら暮している。広いリビング、カウンターキッチン、天井の高さ、いいデザインの浴槽、どれもがよい。ファルマンの実家との距離は2キロほどで、車だと7、8分だし、自転車はもちろんのこと、徒歩でも往来可能だ。これも実にいい距離感だと思う。子どもたちがもう少し大きくなれば、そのうち勝手に向こうへ遊びに行くこともできるようになるだろう。とてもいいと思う。ぜひやればいいと思う。
 今はまだ子どもたちを実家にやるとなると、車で送迎してやらなければならない。今日はファルマンの仕事が立て込むというので義母に依頼し、日中あちらに託させてもらった。今回の移住の目的がそもそもそういうことだったわけだけど、実際にやってみて、実家の近くでの子育てというのはこんなに助かるものかと感動した。休日に子どもから解放される時間というものが、岡山暮しの間は本当に皆無だった。それはいま思えばずいぶんと過酷な状況ではなかったか。道理でみな、実家の近くに住むわけだ。やけに遠回りをして、われわれ夫婦はその真理に到達した。
 遠回りをするといえば、スマホ全盛の世の中においてガラケーに固執し続け、ガラケーとタブレットの2台持ちを経由し、タブレットに電話機能を集約させ(現在ここ)、そしてようやく僕は、「次はスマホだな、小さくて持ち運びしやすいだろうから」ということを決意しているのだが、これもまたあまりにもひどい遠回りだな、と我ながら思う。人生が自分にだけ800年くらい用意されているとでも思っているのだろうか。
 人生が800年、ということで思い出したが、2月6日はcozy rippleの開設日であり、僕の母の誕生日である。cozy rippleは17周年、母は67歳(たぶん)である。母の誕生日ということで、母の年齢を思い出そうとしたとき、はじめに「76歳だっけ?」と思ったのち、「いやさすがにまだそんなになってないか」と気づいて、「67歳か」と、たしか自分と30歳違い、という覚え方から導き出したのだけど、最初の76歳からすれば67歳はだいぶ若い印象になるが、そうはいってもあと3年もすれば母も70代になるのだなあと思い、そしてこの「あと〇年すればもう〇代」という言い方は、母が僕の誕生日に送ってくるメッセージそのものだなあと思い至り、結局のところわれわれ親子は、互いの年齢に対して「いい歳だなー」ということをひたすらに思い、そしてそう思う以上の感情は基本的に一切ないのだな、と思った。とりあえずおめでとうのメッセージだけ送っておいた。
 昼は子どもがいなかったので、夫婦で昨日の晩ごはんの残りで昼ごはんにした。そのときの会話で、ファルマンは島根に来たからには今後やはり免許が必要になってくるだろうということを痛切に感じ、生活がきちんと落ち着いたら運転免許取得に本腰を入れようかと漠然と考えているのだが、それに対して実家の面々、すなわち島根生活(それも子育て)において運転免許は必ずあったほうがいいということを身をもって実感している人々が、「やめておけ」「向いてないからよせ」ということを口を揃えていい、その筆頭はやはり娘の性格をいちばんよく知り、そしていちばんよく安全を願う義母なのだが、先日ファルマンが銀行などに用事があり、義母に車を出してくれるよう頼んで連れて行ってもらった時の車中でもその話になり、「絶対に事故を起すからやめたほうがいい」とやはり唱える義母の運転が、それはもう感情的でひっちゃかめっちゃかなもので、ファルマンは助手席でハラハラし通しだったそうで、僕はこの話を聞いて、こちらに引っ越してくるにあたり、夫婦でこれまで使っていたダブルベッドを処分することにし、こちらでは布団で寝るようになっていて、板の間に布団で果たしてどうだろうと不安だったのだが、厚みのあるいいマットレスを買ったらぜんぜん問題なく快適に寝られており、それはよかったのだけど、この変化において唯一存在する問題として、これまでベッド下の引き出しに詰め込んでいたエロ小説をどうするかというものがあり、結果的にどうしたかというと、ミシンテーブルの下に文庫本用の本棚を置いて、そこに並べて、棚はもちろん椅子に対して正面に向いているわけではなく、テーブルの左端に、右を向いて置かれているため、わざわざ回り込まなくてはどんなものが並んでいるのか分からないので、これでいいや、これはよかった、エロ小説が並んでいる様は本当に充足感があるなあ、ベッドの下に眠らせておくよりもよほどよくなったなあと満足していたら、多感なファルマンはそれでも許せなかったようで、ある日ずらりと並んだ背タイトルが、その前に本を置くことで目隠しされていて、その本がどういう本だったかといえば、『精子の〇〇』とか、『性の技法』とか、『エロジョーク集』といった、直截的なエロ小説ではないけれど、かといって大手を振って晒すのもいかがなものか、みたいな本たちで、ちょいエロ学術本でエロ小説を隠すって、「血で血を洗う」ではないけれど、なんか極限状態だなという感じがあり、でもちょうどいい喩えが見つからないなあと思っていたのだけど、ファルマンに免許を取らせるのが恐ろしいから義母の恐ろしい運転で用を済まさせてもらうというのが、まさに僕のこのエロ本棚の状態と一緒なんじゃないかと思った。妻と義母の関係性を、エロ小説とエロ学術本に喩えて、いったい僕になんのメリットがあるのか。
 夕方に子どもたちを回収し、晩ごはんは餃子を作る。こちらに来て初めての餃子。義母が知り合いからもらったという白菜が、ひと玉まるごとわが家にやってきたので、それで作った。親世代というのはお歳暮やお中元に代表されるように、物品のやりとりを実によくすることだな、と思う。そのおこぼれがやってくることも、実家の近くで暮すメリットに他ならない。餃子は相変わらずおいしかった。

2021年1月31日日曜日

1月締め日曜

 冬の山陰にしては珍しい、気持ちよく晴れた日曜日だったので、一家で近所の散歩をする。引っ越してきて約4週間になるが、バタバタしてたり、天候が悪かったりで、まだいちどもそういうことができていなかった。ファルマンと子どもらは、それでも小学校までの道のりを歩いたりしているが、僕は本当に近所を歩くということをしていなかった。車を停めている少し先にごみ捨て場があり、僕の徒歩移動範囲は4週間そこから更新されなかった。そこから先はもう僕にとって車窓の風景なのだった。そんな場所を、初めて歩いた。
 その結果、車窓から眺めていて察してはいたけれど、やはりここはとてつもなくのどかな場所であると思った。島根で暮すのは初めてではなく、当時の住まいである実家から今の場所がそう離れているわけでもないのだが、それと較べても、のどかさが一段ちがう。決して寂れているとか廃れているということではない。もちろん栄えてもいないけれど。あまりうまくいえない。ファルマンと語り合った結果、「どうもここには四半世紀くらい前の雰囲気がある」という感じが、今のところ最も適切な表現だということになった。時代がそこらへんで止まっている。本当にそういう感じがある。まるで「平成狸合戦ぽんぽこ」のラストのようだと思う。なんかしらの作用により、狸たちの体力が無尽蔵になって、このエリアだけいつまでも往時の姿が再現され続けているのではないか。
 散歩には、子どもたちは跳び縄を、僕はバトンを持っていった。家から歩いて5分ほどの距離にある野原に着くと、空にはポンッという効果音で示されるような、白い雲がありのままの姿で浮かんでいて、岡山だって大概だったけど、それにしたってここまで雲のあられもない、無防備な全景はそう目にしなかったはずだ、と思った。野原、のはらというより、それをさかさまにして、げんやといったほうが適切な原野は、向こう側にも、こちら側にも、どこまでも続いていて、そして他人はひとりもいなかった。どこにもありはしない幻想世界の話をしているのではない。車で1時間半かかる場所の話を話をしているのでもない。家から徒歩5分の場所の話をしている。そこでひとしきり、縄跳びやバトンをして過した。僕も少しだけ縄跳びをしたけれど、やはり神経痛が響くのですぐに止した。バトンはものすごく久しぶりに回した。いったいいつ以来だろう。昨秋に回す機会があったろうか。当然、腕のなまりを感じた。もっとも冬で手の脂がないというマイナス条件もある。春になれば花畑の中でバトンを回したい。
 今日はその散歩以外、買い物で街に繰り出すようなことは一切せず、ひたすら家で過した。
 午前は桃鉄をした。桃鉄は、去年末にswitchで最新作が出たとかで目につく機会が多くあり、したい欲求が高まっていたところに、ファルマンの実家にもう誰も使っていないPS2があり、そして僕はPS2版の桃鉄のソフトを持っている、という要素が合わさり、実現した。僕とファルマンとポルガがそれぞれプレイし、ピイガはそのときどきで調子のよさそうな人のチームになり、あとひとりはコンピュータというメンツで、30年の予定で始めた。桃鉄は長年やったほうが絶対におもしろいので、これから気長にやろうと思う。1年が20分くらいなので、1日に1年ずつやるのも悪くない。今日は時間があったので7年くらいやった。ポルガはひどく気に入ったようで、やっぱり桃鉄はすごいなと思った。
 午後は裁縫。子どもたちの誕生日プレゼントとして、それぞれ裁縫のキットを買い与え、ポルガはショルダーバッグ、ピイガはクマのぬいぐるみを、世話してやりながら作業した。完成まではまだ時間がかかりそうで苦難の道だが、子どもたちが手芸や裁縫をしたがるのはやはり嬉しい。
 そんなおだやかな日曜日だった。1月も最終日で、5日にこちらにやってきて、まあようやくある程度は落ち着いたかな、と思う。住まいに関しては、環境も設備も、本当にいい選択をしたと思っている。暮しがどんどん心地よくなっていけばいい。

2021年1月29日金曜日

神経痛ブログ

  この1週間、毎食後せっせと帯状疱疹の薬を服み、腹から脇まで帯状に伸びた疱疹は、それ以上は伸びることなく、無事に枯れた。いまはかさぶたのようになっている。痕が残らないか不安だ。たぶん、ほとんどは消えるけれど、完全に消えるということはないのだろうと思う。若い人は傷の治りが早い、というのは誰もが知っている有名な事実だけど、若い人は傷の治り方の完璧度が高い、という事実も、それより有名ではないけれど確実にある。最近になって、体がそこまできれいな復元を追い求めなくなってきたような気がする。追い求めなくなってきたというより、られなくなってきたのかもしれない。ほかに(そもそも原資が減少気味の)生命エネルギーを注ぐべき部分はごまんとあるので、これからなにをする体でもなし、別にいいじゃないか、ということか。シビアだな。そろそろ俺もグラビアアイドル活動は潮時か。
 シビアといえば、帯状疱疹を発症したあとに発生しがちだという帯状疱疹後神経痛が、まんまと発生していて、この痛みというのが、なんともシビアな、大人の痛みだ。成長期の骨が伸びてきしむ痛みとはぜんぜん別種の、きしむ痛み。このふたつの「きしむ」は、同じ音でも別の漢字を当てたほうがいいと思う。たとえば嬉志夢と危肢無みたいに。「イタタタタ!」という陽の痛みではなく、「……ッンンン」という陰の痛み。そもそも神経痛という言葉が嫌だ。温泉の効能に必ず書かれていて、しかしこれまでピンと来ていなかったワード、神経痛。得てみて初めて、なるほど、手術とか、薬とか、そういうんじゃなくて、鉱物をたくさん含んだぬるめの温泉にじっくり浸かる以外にこれは対策の打ちようがないな、と得心がいった。
 先週の土曜日に医者にかかり、誕生日パーティーをしらふで過すはめになったまま、なにぶん服薬中のため、もうかれこれ1週間も飲酒をしていない。これまで奴隷のようにこき使われいてた肝臓が、急に自由の身になってしまって、逆に戸惑っているのではないかと危惧さえ抱く。それにしても、神経痛の疼痛で気持ちが落ち込み気味なのに、それをアルコールで癒すことができないとなってしまっては、いったい心はどういう手段で浮上していけばいいのか。さらにいえば激しい運動もよくないので、筋トレもできない。なので本当に粛々と過している。山陰の冬の薄暗さ、つらさもあって、もういっそ冬眠できてしまえばいいのに、と思う。桜の花びらを鼻先に差し出してくれれば、その香りで目を覚ますから、それまでそっとしておいてほしい。

2021年1月26日火曜日

夢の中で

 転入生になる夢を見た。つまり夢の中の僕は学生だった。とはいえさすがに中高生になるまでは想像の翼がはためかなかったようで、私服だったし、たぶん設定としては大学生だったのだと思う。大学生だとしたら実際は転入生もなにもないが、そこは夢なので、ご都合主義なのだった。
 転入したクラスのメイトたちはみな明るく、いい人たちで、現実では、僕なしの状態で既に明るく成り立っていた空間なんて、もうそれだけで拒否感が湧くのだけど、夢の中の僕はそのあたりに寛容で、素直に「みな明るく、いい人たちだなあ」と受け入れていた。あるいはやっぱり僕プロデュースの夢なので、その集団は絶妙に僕好みの明るさ度合、貞節度合、謙虚度合、上品度合に仕立てられていたのかもしれない。
 そのクラスにはマドンナ的な女もいて、なるほどかわいく、しかも初対面だというのにスキンシップが濃厚だった。こいつ俺に気があるんじゃないか、とすかさず思った。
 そのあと男子グループとだべっていたところ、その中のひとり、どうやらみんなから一目置かれている、学級委員とかじゃないけどクラスでの発言力はそれ以上、みたいな男と、やけに気が合うのを感じた。向こうも僕に対してそう思っているに違いないという確信も抱いた。ああ俺はみんなから一目置かれているこいつと、対等な感じの親友になるな、と思った。
 やがて他の男子はいなくなり、僕と彼がふたりで盛り上がっていたら、そこへマドンナがやってくる。マドンナはすぐに親友のようになった僕たちを見て、眩しそうにする。そしてさすがはマドンナらしく、自然な感じでわれわれの会話に入ってくるのだった。
 みんなから一目置かれているやつと、マドンナと、そして俺という3人で、これから輝かしい日々が始まるのだな、と胸が躍ったところで目が覚めたのだった。
 夢だったか、夢だったわな、と一抹の寂寥を抱きながらも僕は冷静だった。なんだか気分のいい夢だったなあ、と改めて噛みしめたところで、しかしこう思い至った。
 たぶんクラスで一目置かれているあいつと、マドンナ、付き合ってる。
 そう考えたら、最初のマドンナによるスキンシップも、一目置かれているあいつとの共鳴も、すべてがあの完全無敵なカップルのプレイであるように思えてきて、俺はただあのカップルの遊びに利用されただけなんじゃないかと思った。
 夢の中の登場人物は、本人の頭が作り出したものであり、本当には存在しない、ということは理屈としてもちろん分かっているのだけど、その一方で、僕の人生の中に登場人物として登場した以上、完全に存在しないとも言い切れないだろう、ということも思う。形而下の、物体としてあるものだけが「存在する」ということではなくて、その定義でいえば存在することになるけれど僕の人生には登場しなかった人と、実在はしないけれど夢の中に登場した人とでは、どちらが僕の人生の中でより存在していたか、という話になってくる。
 インターネットがつまらなくなった、ということがよくいわれ、それは僕自身もまた大いに感じ入るところなのだけど、どうしてつまらなくなったのかといえば、インターネットの世界はかつて、夢の世界だったからだと思う。夢の中の登場人物は、現実には存在しないので、相手にどう思われようと別によくて、自由気ままに振る舞うことができる。僕は当時のインターネット世界でそこまではっちゃけていたわけではないけれど、かつてのインターネットにはそういう雰囲気があったように思う。みんなで一緒の夢を見ていて、だからそこで繰り広げられることは、現実に戻ってしまえばなんの後腐れもない、そういう空間だった。ハンドルネームだったこともあり、実在の人物とははっきりと乖離していたのだ。
 それが昨今のSNSの台頭により、夢の世界が現実世界にすっかり侵略されてしまい、意味がなくなってしまった。夢が現実になってしまった。夢が現実になるって、幸運な出来事が起きたときに使う表現だけど、夢が現実にすり替わってしまうなんて、なんとつまらないことだろう。夢は夢のままがよかった。