遅ればせながら、出雲大社に参った。1月は混んでいただろうし、そもそも生活のほうがそれどころじゃなかったので、気づけばこんな時期になってしまった。もっとも後者の理由は単なる言い訳で、結局は近いと意外と行かない、というよくある話だ。実家に住む三女もまた、「出雲大社に行きたいんだけどなー」ということを1月から言っていて、そして未だ行っていなかったので、我が家が行くついでに誘ったら、義母とともに現れた。本当に、そういうきっかけがないとなかなか踏ん切りがつかないんだよな。
出雲大社は2月でもなかなかの人出だった。もっともその「なかなかの人出」は、普段あまりにも人出のない世界で暮している人間の感想であり、正確に言うならば「閑散としていない」くらいの度合だろうと思う。
ちなみに我が家としては、これは初詣ではない。まだ倉敷にいた三が日に、近所の稲荷神社に参った。そしてこのときに引いたおみくじが、これから島根での新生活が始まる期待感を一気に萎ませるほど、あまりよくない文面だったので(即刻境内に巻き付けたのでもはや内容は覚えていないけれども)、そのリベンジとして今回改めておみくじを引いた。地方裁判所で有罪だったから控訴して最高裁判所で再審議、みたいな感じだ。
その結果、控訴するものだ、一転とてもいい内容だったのでホッとした。いい内容だったので持ち帰り、手元にあるので引用する。「運勢」の欄には、「本年は、運気開発の時期であり、これより好縁に結ばれる運に進む。進退共に障害なく、百事を進んで行うことは吉である。一層に信心しなさい。」とあり、これこれ、新生活にあたってこういうのが欲しかったんだよ、と思った。さらに「訓」の欄には、「人に交はるには、和譲・恭敬・忠恕を旨とすべし。仮にも驕慢の態をなすべからず。」とあり、この言葉には大いに思い当たる部分があり、胸に突き刺さった。神様はどうやら俺のことを見ているな、などと思った。今年の目標は、驕慢の態をなさないこと。そして和譲、恭敬、忠恕を旨とすること。そういう人間になっていこうと思う。人と交はるために。なるほど誰も僕に手取り足取り教えてくれなかったけど、これこそが人と交はるコツっぽいな、と腑に落ちた。
そしてこの文面を見て思い出したのだが、先日ノート類の整理をしていたら、1ページに「業は着々と生成発展の域に進む」と自分の字で繰り返し書かれているノートがあり、「ひゃあ」と恐怖を抱いたのだけど、このフレーズもまた、出雲大社のおみくじだった。2017年のこと。振り返ってみて、2017年が業の生成発展の域に進んだ年だったかどうかは定かではないけれど、どうやら僕は出雲大社のおみくじに感化されやすいらしい。なんでだろう、言い回しが漢文っぽいからかな。
そんなわけでいい出雲大社参拝だった。賽銭を入れるポイントが多すぎて、財布の小銭という小銭が駆逐されたけど、それに見合うパワーを頂戴した感がある。今後もちょいちょいご挨拶に伺おうと思う。せっかく地元なのだから、出雲大社を妄信して生きていこう。