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2024年2月17日土曜日

百年前日記 25

 そのあと僕はふたつの縫製会社の面接を受けた。
 ひとつはこれまでとはだいぶ毛色の違う、すなわちくたびれていない所で、縫製だけをやっているわけではないが、オリジナルのブランドを持ち、10名ほどの縫製工を擁する縫製工場(こうば)は、前年あたりに新設されたばかりという、なんだかイケイケな会社だった。面接を受けに行くと、少しギャルっぽさのある若い女性に案内され、面接官として現れた男は湘南乃風のようだった。いま冷静に考えたら、その職場はお前には合わないだろ、と断言できるのだが、当時の、くたびれた感じの縫製工場に6年いて、そのあと同じような縫製工場の面接を受けたらそこにはかつての同僚もいてウンザリ、なんてことがあった僕には、コンクリート打ちっ放しの、美容室のような新しく小ぎれいな場所で、10人くらいの縫製工で日々さまざまなものを縫うという、これまでとはだいぶ異なる世界に、魅力を感じてしまったのだった。採用されればいいなあ、と切に思った。
 その結果が出る前に、もうひとつ別の会社にも面接を受けに行った。こちらはくたびれているほうの縫製工場で、ここに入社したら、前までとほぼ変わらないような感覚で働けそうだなあ、という感想を持った。それはいいことのようにも、悪いことのようにも思えた。面接官はわりと若い感じの気さくな男性ふたりで、楽に話せた。縫製工場に勤めていた経験から、向こうが欲しい答えをズバズバ出せている感触があり、手ごたえがあった。採用されることはまず間違いないが、ふたつの会社を並行して受けているため、結果の通知の順番が問題だな、と思った。
 そのときの気持ちとしては、先に面接を受けた小ぎれいなほうで働ければどんなにいいだろう、という思いだったが、こちらは結果の見通しがつかなかった。後者は採用の連絡が来るのは目に見えていたが、それが先に来てしまった場合、どう返事をすればいいか悩ましかった。いちばん参るのは、前者に心を決めてしまい、後者の採用通知を断ったあと、前者から不採用の通知が来る場合だ。別に僕は、後者の会社で絶対に働きたくないわけでは決してないのだ。ただ前者の会社に強い魅力を感じてしまっているから、そこに葛藤が生まれるのだった。
 さてどうしたものかなあ、と困っていたら、後者の会社から郵送で、不採用通知と履歴書が送られてきた。これにはとてもびっくりした。狐につままれた気分とはこのことか、と思った。妻からは、「面接がすごく話しやすくて盛り上がったって言ってたから、怪しいなって思ってたよ」と言われた。案外そういうパターンもあるらしい。人間怖い。
 しかしこの数日後、前者の会社から採用の通知が来たので、心の底から安堵した。フラれた憤りもあり、あー、あそこから採用の連絡が来なくてよかった、と思った。
 かくして僕は10月より、ふたたび縫製工場に勤め始めることになった。6月以来と考えれば、なんのことはない、僕の縫製工としてのブランクは、まだ3ヶ月でしかなかった。化学工場に勤めた半月間が、早くも幻のように思えた。途中でいちど奇異な夢を見たが、縫製の仕事をしに移住して来た岡山で、会社こそ変わったが僕の縫製工としての日々は続いてゆくのだな、と思った。
 しかしこの会社での日々は、またすぐに終わることとなる。そしてそれは、僕の岡山での縫製工としての日々の、完全なる終了を意味するのだった。

2023年2月24日金曜日

百年前日記 24

 最初に面接を申し込んだ会社は、これまで勤めていたところよりもひと回り規模の大きそうな縫製工場だった。岡山県南部には児島という、国産デニムという分野において名の知れた地域があり、大小合わせるとかなりの数の縫製会社が集まっている。受けたのはそのうちのひとつだ。そもそも6年前にわれわれが島根から岡山に移住したのも、岡山は縫製業が盛ん、というイメージがあったからに他ならない。そうなのだ、先月は謎の寄り道をしてしまったけれど、岡山に住んで縫製以外の仕事をする道理が、僕にはまるでないのだった。
 訪問すると、会社はかなり古びていたが、通された社屋の応接間はこぎれいだった。事務系の女性がおっとりした雰囲気の人で、僕のペンケースを見て、「あら、それ手作り?」と語りかけてきた。僕は祖母の作ったペンケースを、そこまで気に入っているわけでもないが、なんとなく何年も使い続けていた。
 やがてふたりの男性が現れて、それが社長と専務だった。最初の対面でいきなり社長と専務が現れるのだから、前の会社よりも規模が大きいと言ったって程度が知れているだろう。創業者ではないようで、ふたりともそこまで高齢ではなかった。
 話してみると、感じは悪くなかった。しかし募集要項には縫製工場にまつわる各種の仕事がとりあえずといったふうに列記されていたのだが、どうも話によると、僕が採用ということになった場合、デニムにワッシャー加工を施す部署に配属されるようで、その作業というのは、縫製会社が行なう作業の一工程という意味では縫製業と言えるのかもしれなかったが、少なくとも僕のイメージするそれではなかった。やっぱりどうせならミシンが踏みたかった。しかしミシンオペレーターという役割は、前の会社でもそうであったように、基本的には女性の仕事なのだった。男はそれを管理したり、あるいは裁断やプレスなどの加工をする、というのがよくあるパターンで、この会社もつまりそのパターンらしかった。
 そのため面接の途中ですっかり心の中は冷えていたが、このあとに社長の口から出た言葉で、それは決定的なものとなった。
「そういえばT縫製と言えば、O君も来てるよ」
 T縫製とは僕がもともといた会社で、Oはそのプレス場にいた、少し年上の男の名前だった。特別仲がよかったわけでもないが、同じ日本酒党として、飲み会の際には隣り合うことも少なくなかった。工場閉鎖後、彼はここに流れ着いていたのだった。同じエリアの同じ業界なのだから、こんなことは十分にあり得ることに違いなかったが、なぜかそれを聞いた瞬間、僕はやけにショックを受けてしまった。Oは高卒でそのままT縫製に入ったのか、年はそれほど僕と離れていないのに、会社ではかなりのベテランだった。そんな彼の、新しく入った会社での姿を見たくはなかった。彼はそこまで要領のいいタイプの人間ではなかった。それでも長年ひとつの会社にいたことで、なんとかポジションを確保していたのだと思う。それがない状況で居心地悪そうにしている彼を見たくなかった。彼も見られたくないだろうと思った。
 それになにより、僕は彼も含めた男性社員の集いで、工場閉鎖後の身の振り方について雑談をしていた際、堂々と宣言してしまったのだ。「もう縫製業はやらない」と。
 面接から数日後、電話がかかってきて、採用が告げられたが、僕は丁重に断った。

2022年5月29日日曜日

百年前日記 23

 工場で黙々と働くのが向いているのではないかと思い選んだ化学工場はあまりにも異世界で、当世流行りの異世界物の主人公になったかと思った。ライトノベルと異なり、職場には男しかいなかったのだけど。異世界の人々は、タンクの中身の分量をいうときに、「リューベ」という単位を使った。生まれて初めて耳にしたそれは、すぐには意味が分からなかったが、状況や知識から複合的に類推して、平面の平米に対しての立体の立米のことだ、と理解した。すごい理解力ではないか。そんな、これまであまりにも縁のなかった言葉、単位、概念に対して。しかし言葉は理解したが、リューベでものを考えなければならない世界観に馴染むことはどうしてもできないだろうと思った。気持ち的にではなく、能力的にだ。
 縫製工場と化学工場は、同じ工場という名称を用いながら、実はぜんぜん別のものだった。それはそうだ。縫製工場で働いていたから化学工場でも働けるだろうなどと、どうして思ってしまったのか。
 幸いにもすぐに支給が再開された雇用保険だったが、残りのうちの70%を先行して受け取ったこともあり、残りの日数はそう多くない。今回は当然ながら前回のように悠長には構えられないし、なにより無職の日々はもうたくさんだった。
 僕はすぐに次の就職活動を始め、そしてそれは業種として、縫製会社に絞って行なったのだった。6年間の経験を踏まえ、縫製会社を除外して再就職活動を行なったが、その結果がさんざんなものになり、やっぱり自分は縫製しかできないんじゃないか、そもそもほぼ身寄りのない岡山に移住したのは縫製業が盛んだからであって、だとすれば岡山に住みながら縫製業以外のことをするのって、あまりにも意味不明なんじゃないか、などということをいまさらながら痛感し、やはり縫製業に回帰する決意をしたのだった。
 そう決めてからは、気持ちがだいぶ楽になった。履歴書にしろ面接にしろ、縫製業ならば転職活動として無理がなかった。前に勤めていた縫製工場が閉鎖したので再就職先を探しております。それで済むからだ。ただしなまじっか業界のことを知っているがゆえに、懸念点もあった。国内での縫製業が斜陽産業であり、給与は基本的に低いなどということは、僕も妻もすでに重々分かっていたが、縫製工を「ミシンオペレーター」と称し、ミシンの拡張した機能かのように、人格も与えずに無茶な勤務体系で働かせるような、そういう会社は嫌だと思った。前の会社はそこまで悪辣ではなかったが、嫌気が差す場面ももちろんあった。
 岡山において縫製業は、さすがのものでコロナ禍においても募集はそれなりにあった。その選択肢の中で、いちおう僕だって経験者であり、働けさえすればなんでもいいという弱い立場でもないので、面接でしっかりと会社を見定め、就職先を決めようと思った。
 そんな状況で、僕は37歳の誕生日を迎えたのだった。

(おめでとうございます!)
 

2022年3月15日火曜日

百年前日記 22

 化学工場は異様な場所だった。面接では事務所しか見なかったため、初出勤で工場内部を案内され、そのこれまで自分の生きてきた世界とはあまりにもかけ離れた世界に、ただひたすらに衝撃を受けた。工場は広く、古く、入り組んでいて、好きな人にとってはたまらなく好きな世界なのだろうと思った。僕はただ戸惑っていた。
 結果を先に言ってしまえば、僕はこの工場を2週間で辞めた。
 なにか決定的に嫌な出来事があったわけではなかったが、とにかく違和感がすさまじかった。全身淡い緑色の制服を着た理系の青年たち(平均年齢はたぶん僕の年齢よりも低かった)が、pHだの塩分濃度だの次亜塩素水だのという話をする空間は、あんまりにも僕の居場所ではなかった。そんなことは応募前にもう少し想像力を働かせれば分かったはずである。だからこれは一方的に僕が悪い。退職を申し出ると、特殊な職場なので辞める人はすぐに辞めるのだ、と向こうは慣れた反応だった。
 辞めたあとには、耐油性の長靴と、汚れた制服を持って帰る目的で購入した防臭機能付きの袋と、そして入社3日目あたりに購入した1ヶ月分の定期券が残された。定期は、岡山駅乗り換えで2路線を利用するため、けっこうな値段がした。それはそもそも会社規定の交通費の上限を超える額だったのだが、少し足が出ても電車通勤がいいと思ったし、なにより岡山駅を利用できるなら十分に使いでがあるだろうと目論んで購入したのだった。実際には、勤めていた2週間の中で改札外に出て岡山の街に繰り出したりしなかったのはもちろん(精神的にも肉体的にもそんな余裕はなかった)、そこからの再びの無職期間中もまるで使わなかった。岡山の街に行くということはすなわち商業施設に行くということなので、無職ではなかなかそんな気も起らないのだった。
 しかし転職はあまりのミスマッチで失敗だったが、2週間と素早く判断したことにより、傷は浅く済んだと言えた。履歴書に書く経歴にもならないので、今回の就職は、「なかったこと」にすることができた。後日、離職票が届いたのでハローワークに行って手続きをしたところ、僕はまだ自己都合退職者ではなく、会社都合退職の効能が残っている身分であると伝えられた。どういうことかといえば、会社都合退職によりもらえるはずだった180日分の雇用保険を、僕は55日分くらいもらって再就職し、それは全体の3分の2以上を残しての終了であったため、残りの125日間でもらえるはずだった雇用保険の、70%の金額が一気にもらえたのだけど、だとすればあと30%は原資として残っていることとなる。この30%分を、これからまた無職期間中は、日々受給できるのだそうで、だとすれば僕はこれ、もちろんそんな意図はなかったのだけど、本当は180日間かけて受け取る金額を、ちょっとワープして短期間で受け取れるという、そんな裏技を使った形になるんじゃないかと思った。
 かくして僕はふたたび無職になった。

2021年11月11日木曜日

百年前日記 21

  夏の終わりに、コロナ禍の中、せめてものレジャーとして家族で洞窟に行った。新見市なので、岡山県のまあまあ北部ということになる。井倉洞という洞窟である。その数日前にローカルのテレビ番組で紹介されているのを見て、洞窟なので内部はひんやり、という文句に誘われて行くことにしたのだが、ひんやりしているのは洞窟内だけなので、陽射しが照りつけてエアコンが追いつかない車中や、駐車場から洞窟までの行き来で、結局暑さにやられた。新見市に至る途中には高梁市があり、この日もまさにその最中にあったのだが、この二〇二〇年の八月に、高梁市は猛暑日連続の日本記録を更新したのだった。これは二十六年ぶりの更新だったそうで、けっこう貴重な歴史の一幕にわれわれ一家はかすったのかもしれないと、あとになって感じた。

(データを調べてみたところ、今ではその記録は歴代十九位タイです)

 そんなあまり冴えなかった八月を経て、いよいよ九月になった。なってしまった。方向性の定まらない、暑い、子どものうるさい日々には、心底うんざりだったが、じゃあ働きたくてしょうがないかといえば、もちろんそんなこともなくて、いったい自分はどんな状態が希望なのかと自問した。迷ってばかりだ。この九月に僕は三八歳になる予定で、不惑がどんどん近づいていた。アラフォーという言葉は、一時期世間で大きく取り沙汰され、嫌悪したり忌避したり秘匿したり受け入れたり、とかく当事者の心をかき乱したが、そんなライトな言葉よりも、不惑のほうがよほど心に重くのしかかると思う。四十歳になったらウロウロ迷ったらいけない、四十歳にもなってそんな状態なのは恥ずかしいことだ、というプレッシャーに対して、自分の現状はあまりにも頼りなかった。
 とにもかくにも初出勤だった。電車で通勤することを心に決めていたが、初日は荷物があったり、実際の一日の流れを見てから乗る電車を決めたほうがいいだろうという考えがあったりで、とりあえずは車で出勤した。遠かった。物理的に遠いし、岡山の中心地を通らなければならないので道が混んでいるしで、ずいぶん時間がかかった。やはり電車だな、と思った。

2021年10月29日金曜日

百年前日記 20


 面接を受けるにあたり、いちおう化学の勉強をした。化学なんて、高校では一切やらなかったと思うので、実に中学以来だった。化学式だのモル比だの、まさか自分が就職のためにこんな知識を学ぶだなんて、と自分の人生の奇怪さを笑いたくなった。
 その勉強のかいもあって、というわけでも――別に筆記試験があったわけでもないので――ぜんぜんないが、面接の結果、採用ということになった。採用の知らせを受けたのが八月の十日頃で、それからお盆休みなども挟むため、出勤は九月一日からと決まった。
 これにより、なんとなくそうなればいいなと思っていた通り、無職期間はちょうど二ヶ月間ということになったわけである。そしてこれは、半年間という雇用保険の受給期間の三分の一であり、実際にもらいはじめたのは七月に入ってからなので、三分の二以上の受給期間を残しての再就職決定ということとなり、それというのは早期の再就職決定手当をもらう条件でもあった。これによりあと百二十日ほどかけてもらえるはずだった七十万円あまりが、五十万円程度に目減りはするものの、いちどにもらえる運びとなった。就職してから初めての給与が出るまではひと月半くらい掛かるはずだし、そもそも試用期間などという名目で額面が低いことを思えば、これはとても心強かった。
 だからこの手続きをするために行ったハローワークは、これまでと同じ場所と思えないほどに、明るい場所のように思えた。気持ちによって世界はぜんぜん違って見えるのだな、ということをしみじみと感じた。
 かくして心穏やかな日々がやってきた。雇用保険の受給期間中とはいえ、やはり先の見通しが立たない暮しは心が落ち着かなかった。それが解消されたことで、僕は堂々と働かない八月の後半を堪能することができるようになった。とはいえ八月は暑く、夏休みで家にいる子どもはうるさく、コロナに対する警戒の呼びかけはかまびすしく、そこまですべての憂いが取り払われて健やかだったかといえば、そんなこともなかった。しかしこれはもうどうしようもなかった。大人という生きものは、そういうものなのだと思う。そこから完全に解放されるためには、宗教を持ったり、それ相応の薬を使ったりする必要がある。とりあえず僕はまだそれらに頼らずに生きようと思っているので、たまにストロング系チューハイを飲む程度でなんとか日々をこなす。そのあたりが大人として求められる最大限の健やかさなのだろうと思う。

(これもまた時代には関係なく、いつまでも変わらない現実ですね。なにも知らないでいる幸福と不幸、なにかを知ることの幸福と不幸、どのスタンスのどの度合が正しいのかは、永遠に答えが出ないことでしょう)

2021年9月5日日曜日

百年前日記 19


  なにもしようと思わなければ、茹だるような暑さもあって、どこまでもなにもしないで過せてしまうので、そうなってしまわないよう、プールには何度か行った。倉敷市には五十メートルのプールがいくつかあり、特に夏季限定の児島や水島のそれは気持ちがよかった。しかし平日の午前中からプールに来ているのは、老人か、あるいは未就学児を連れた母親たちなどで、なんとなく居心地が悪かった。
 八月に入り、また会社の面接に行った。今度の会社は化学工場だった。営業みたいなことはどう考えてもできないので、どうしたって勤め先は工場ということになる。そして大掛かりな装置で、基礎的なものを作っている工場ならば、もうやることは決まっていて、仕事中は機械のように淡々と業務をこなし、労働に対して賃金以外のなにも追い求めず、ただ平穏に生きていけるのではないかと思った。
 ちなみにひとつ前の話題に水島という地名が登場したが、面接に行った会社は工業地帯で名高い水島ではなく、岡山市内にあった。そのため家からは少し距離があったが、化学工場のわりに最寄りの駅からなかなか近く、電車通勤をすることも可能そうだった。
 これもまた、あまりに唐突な化学工場などという業種を選んだ理由のひとつだ。
 せっかく転職をするならば、今度は電車通勤できる仕事がいいと僕は考えていた。これまでの縫製工場は、車で片道三〇分あまりかかった。これがおそらくはじめからそうであれば、なんの疑いも持たず、そういうものだと割り切れたに違いないが、高校生から二十代後半まで電車で通勤していた身からすると、移動するための運転を自分でしなければならない車通勤というものに、大いなる無駄を感じるのだった。運転手がいる公共の乗り物を使って乗客として移動できるならば、その時間は本を読んだり仮眠したり、自分のために使える。これまで毎日、往復で一時間超、運転に時間を費やしていた。運転中は、当然だが運転のことしかできない。できるのはせいぜい音楽やラジオを聴くくらいだ。それだって別に聴きたくて聴いているわけじゃない。運転には神経も使うし、睡眠不足にもなれない。なるべくなら車で通勤なんかしたくない、と常々思っていた。

(その車って、たぶんあれですよね。ガソリンとかいう、石油で走るやつ。かつて車はガソリンを燃やしてエンジンを回していたんですよね。とんでもない時代ですね)
 

2021年6月14日月曜日

百年前日記 18

 ちなみにその印刷会社はそこそこ大きな所で、デザインから印刷まで一手にやっていた。面接官の社員に社内をひと通り案内され、印刷所以外の、オフィスのほうも巡った。オフィスには、パソコンに向かってデザインソフトを操作している輩というのがいた。印刷所の人々はつなぎのような作業服姿だったが、こちらはラフな私服だった。
 そのさまを眺めて、こんな疑問が頭の中にわいてしまった。
 僕はどうしてパソコンでデザインソフトを操作するほうじゃなくて印刷工なんだろう。
 別にデザインの仕事がしたいわけでもなかったが、単純に不思議に思った。日芸といったって文芸学科ではデザインとはなんの関係もないが、それにしたってあまりにもなんのスキルもなく、単純作業のような仕事ばかりを求めている。そして七年間働いてなんとかものになった縫製の仕事は、やけに給与が少なく、業種としても斜陽だ。
 どうも社会の中で、うまいことできていない。
 求職者の立場になって、しみじみとそう感じた。そして気付けば三十五歳を過ぎていて、まだ小さな子どもがふたりいるのだった。ああ、これはだいぶまずいな、だいぶまずいな、と思った。
 かくして僕の再就職活動には、暗雲が立ち込めた。
 そもそも社会の中で自分が立派に仕事をしている姿を、自分でもまるで想像できないというのに、なぜ社会がそんな人間をすくい上げてくれるというのか。そんなことをしても、社会になんのメリットもない。世の中には、社会の中で立派に生きようと意気込む人が大勢いるのだ。それは社会を成立させるために必要な数よりももっといて、だからそれらを重用していれば社会は丸く収まる。わざわざその部分が欠けている人間を、社会が内側に引き入れる理由はまるでない。そんな奴はガッツがないから、どうせすぐにくじける。くじけられたら迷惑だ。避けたほうがいいに決まっている。
 ましてや僕は、転職におけるひとつの年齢制限であるという三十五歳を超えているのだ。勤めていた縫製工場は、いま考えると従業員の平均年齢がやけに高くて、男性陣の中で僕は最年少だった。だからあまり自分の加齢のことは気にせずに生きていた。しかし就職活動をスタートし、募集要項などを見るにつけ、じわりじわりとそのことを痛感させられた。
 しかし暗雲は立ち込めたものの、幸いなことに、僕にはまだまだ時間的な余裕があった。雇用保険の受給期間はたっぷりあった。細々と暮せば、そこまで蓄えを減らすことなく暮すことができるはずだった。そもそも七月の段階から、そこまで本気でなかったにせよ、就活を始めたことが間違いだったのだ。
 そう思う一方で、インターネットで収集した就職情報をせっせと提示してくる妻の、「だってあなたは発破をかけなければ本当にいつまでも就活しないでしょ」という言葉に反論することもできなかった。僕には大学生のとき、卒業するまで就職活動をしなかったという前科があった。
 実際、「まだ時間的な余裕がある」からいったいなにが安泰なのか。僕の能力的にも、社会情勢的にも、三ヶ月ほど待機して好転する要素などひとつもないのだった。
 しかしそこからは必死に目を逸らし、無職の夏を過した。

2021年5月22日土曜日

百年前日記 17

  まだしなくてもぜんぜんよいはずだったが、前述のように、「俺は夏の間は一切の就活をしない!」と堂々と宣言できるほどの大胆さはなかったため、妻にやんわりと促されるままに応募をし、その結果「じゃあ面接に」ということになってしまったのだった。
 受けたのは印刷の会社だった。もう縫製業はしないということは決めていて、じゃあなにをするかと考えたとき、やはりなんかしらの製造関係がいいと思い、印刷に目をつけた。印刷もまたどこまでも斜陽産業なんじゃないかという気もしたが、印刷といったって紙媒体とは限らず、商品パッケージなんかもあるようで、けっこう手堅いのではないかと思った。なにぶん、どうしてもすぐに再就職しなければならない切羽詰まった状況ではないため、まあ様子見でとりあえず受けてみるか、という感じで面接に向かった。
 印刷会社で働くかもしれないとなって、僕にはひとつの感慨があった。
 かつて岡山に来る前、我々一家は島根県の妻の実家で暮していたのだが、その際に僕はショッピングモール内の服のお直し所にパートで勤めていた。このあと岡山に移住して縫製業に就くことは、ここに入社する前から考えていて、そのための足掛かりだった。その店舗は、二十代男子の僕ひとりを除いては、他の全員が五十歳オーバーの女性というメンバー構成だったので、いろんな意味で修行の期間だったと思う。
 それで無事に岡山への移住が決まったとき、「向こうではなにをするのか」と同僚のおばさんから訊ねられた僕は、ほとんどが元縫製工である彼女たちに対して、「縫製業だ」と正直に答えるのがなんとなく億劫で、「印刷会社に勤める」と噓をついたのだった。
 それがもしかしたら真実になるかもしれないと思った。
 結果としてはならなかった。面接後、自分から断りの電話を入れた。
 この会社の印刷工の勤務体系は、「三日出勤、一日休み」をひたすら繰り返すのだそうで、それ自体はハローワークの募集要項に書いてあったので了解していた。曜日はもちろん、お盆も正月も関係なく、三勤一休。もっともそれはいま思えば、やっぱり実家が遠くにある家族持ちが長く勤められる形態ではなかったろうと思う。求人に応募するときは、なんとなく希望的観測になってしまいがちで、無理な条件も「大丈夫な気がする」と思ってしまいがちだ。この印刷会社に関しては事前に免れたが、僕はこれから何度もその過ちを、文字通り痛感することになる。
 それでこの印刷会社の選考をどうして断ることにしたのかといえば、印刷所は三百六十五日、二十四時間稼働だというのに、シフトが朝番と夜番しかなかったからだ。その点については面接官からなんの説明もなく、そこに言い知れぬ恐怖を感じた。二十四時間という時間を、ふたつのシフトで繋ぐとすれば、ひとつのシフトが十二時間を担当することになる。
 それはつまり、そういうことだろう。
 ぞわ、とした。

2021年5月18日火曜日

百年前日記 16

 かくして家にやってきた工業用ミシンは、工場で見ていた頃よりも巨大だった。占有スペースとしては、アップライトピアノとほぼ同一だろう。しかしミシンの左に伸びるテーブル部分に僕のパソコン一式を置けたので、ミシンとパソコンの合同の作業スペースと思えば、そこまで大袈裟に場所を取っているわけでもない。そんなふうに言い訳をして、工業用ミシンはリビングに置かれた。
 その工業用ミシンで、練習のブラウスのほか、夏用のマスク、子どもたちのセーラーブラウスとワンピース、マスクを入れるための移動ポケットなど、いろいろなものを作った。堂々と無職をすればいいのに、そんな胆力はないので、どうしても「生産」をして、救われようとしてしまうのだった。
 毎日が日曜日になったらプールやサウナに行き放題だなあとわくわくしていたが、考えてみたらプールもサウナも、日曜日にわざわざは行っていなかった。仕事の帰りに行っていた。それらの目的でわざわざ車を出し、さらにプールはまだしもサウナとなれば八百円ほどの代金が掛かってくるわけで、そんなことを思うと無職の身としてはなかなか繰り出す気にならないのだった。先立つものがないと、行動や思考がどんどん消極的になっていくような感じがあり、そのことにじっとりとした哀しみを覚えた。

(サウナは私も好きで、よく行きます。もっともこの頃のサウナと今のサウナは、だいぶ違うものかもしれません。先日は調子に乗って踊りすぎたため、猫が怒っていました)
 
 初めて再就職のための面接をしたのは、七月の終わりだった。

2021年5月17日月曜日

百年前日記 15

 それでパターンの勉強は結局どうなったかといえば、それなりにやった。襟や袖や前開きのさまざまな形状のものを組み合わせ、好みのブラウスを作るという本で、何着か実際に作ってみた。製作を通して、なるほどなあと思う部分もあったが、知りたいことの本質的な勉強にはなっていないような気もした。
 そもそも僕は服を作りたいのか? ということも思った。絵に描いたようなジタバタである。
 社会からほっぽり出されて、確たるもののなさをしみじみと感じた。しかし確たるものなんて、いったいどれほどの人間が持っているだろう。暮らしが安定的に続く限りは、それは感じなくてもいい懸案である。
 いまどきのレトリックでいうならば、武器というやつだ。我々は、弱肉強食の世界で、生き残りのために、武器を持たなければならないのだ。これのどこが文明社会なのか。
 百年後や二百年後の世界では、こんな仕組みから人類は解放されているのだろうか。

(少なくとも百年後は解放されていません。おそらく二百年後も無理でしょう。原資は有限なので、どうしたって奪い合いは起ります。そこからは永遠に逃れられないのだと思います)

 八年前の無職の夏は、小説を書いた。もうどんな小説だったか、あまりよく覚えていない。いちおう書き上げて、どこかへ応募した記憶はある。箸にも棒にも引っ掛からなかった。今回は小説を書く気にはならなかった。それでいていまになってこうして長い話をし始めている。だとすればこの行為もまた、ジタバタに他ならないのだと思う。

(しかしそのおかげで私はこうしてこの文章を読めています)

 七月はそれでも、はじまったばかりの無職生活を前向きに過せた。
 七月に入ってすぐは長引いた梅雨によって雨が続き、それが途絶えたところでようやく工業用ミシンが我が家に届けられた。工場長とミシン屋が、軽トラックで運んできてくれた。
「就活はしとるんか」
 僕が勤めはじめたときから工場長で、工場長としか呼んだことのない元工場長が、荷台からミシンを降ろしながら訊ねてきた。
「いちおう書類を送ったりはしてますよ」
 と僕は答えた。嘘ではなかった。よほどのことがない限り、すぐに再就職するつもりはさらさらなかったが、それでも急き立てられる部分はあり、ウェブ上での応募など、完全にしていないわけではなかった。
「そうか。偉いな。決まったら連絡くれ」
 五十代後半の元工場長は、かなり技術のある人だったこともあり、他の会社からの誘いもあるといつか話していたが、それもまた状況は変わっているかもしれないと思った。もっとも子どもは既に社会人だし、何十年も勤めた上での雇用保険は僕の条件よりもはるかに手厚いだろうから、余裕はあるはずだった。
 もうこの人と会うことはきっとないんだろうな、と思いながら見送った。

2021年5月15日土曜日

百年前日記 14

 僕はその足で倉敷市のハローワークに立ち寄った。そこまで急いで申請に行く必要はない、どうせ長期戦になるんだ、と言っていた人も会社にはいたが、やはりなるべく早く雇用保険をもらいたいと思い、退職日翌日の申請となった。会社にハローワークの職員が来ての説明で一応の予備知識はあったが、やはり自己都合退職と会社都合退職では、ハローワークの待遇がまるで違った。そうか、失いたくないのに職を失ってしまった者こそが、雇用安定所たるハローワークにとっての正規の客なのだな、と理解した。
「コロナの影響ですか」
 書類を提出すると窓口の人にこう訊ねられたので、「ちがいます」と僕は答えた。
 タイミング的にはあまりにも新型コロナウイルスの影響を感じさせるが、工場の閉鎖が告げられた一月末には、新型コロナウイルスがここまでのことになるとは誰も予想していなかった。本社が決定を下した工場の閉鎖に、新型コロナウイルスという要素は考慮されていないはずだった。
 申請が終わると、本来は受給に関する説明会のようなものがあるはずだったが、これもまた新型コロナウイルスの影響により取り止めだという。そうしてどこまでもスムーズに、ある意味で恵まれた境遇で、七日後からだという雇用保険の受給が決まった。一八〇日というその期間は、波風立てずにひたすら受給すれば、ほぼ年内いっぱいもらい続けられる計算だった。もっともさすがにそれはできないし、するつもりもなかった。一日の受給金額はせいぜい六千円足らずであり、それで家族を養って暮せるはずもなかった。
 そもそも間が持たない、とも思った。それでも七月と八月くらいは就職せずに暮せたらいいな、ということを漠然と思っていて、それなりにしたいこともたくさんあったが、大人の男のしたいことなんて、そこまで長い期間を埋められるほどではない。真夏の二ヶ月間が関の山だろう、と思っていた。ちょうど雇用保険には、「受給期間の三分の二以上を残して再就職を決定した場合には、残りの受給額の七〇%を一括支給する」という制度があり、だとすれば八月いっぱいまで六〇日あまり無職で過ごし、九月から再就職をすれば、ずいぶんな金額をせしめることができるぞ、と算段した。
 したいことの筆頭は裁縫で、仕事をしながらだと気力が湧かなくてなかなか取り組めない、本に書かれた作り方通りに作るのではない、パターンへの理解を深める勉強をしようと思った。それでハローワークの帰りに図書館に寄って、そういう本を借りて帰った。
 僕の無職の夏はこうして始まったのだった。

2021年5月12日水曜日

百年前日記 13

 商品という血流がなくなったあと、機械や設備という内部構造も瓦解して、工場という巨大な生き物は、もはや外殻だけの存在となった。その一連の作業を通して、工員とは本当にバクテリアのような存在なのだな、としみじみと思った。本当はずっと寄生していたほうがいいのだけど、なにかの弾みで宿主のバランスが崩れると、共倒れになる。それまで血液内の栄養分とかを掠め取って暮していたのが、肉体を自由に食べることができるようになるので一時的にフィーバーが起るが、それは食べてしまえば回復することは一切ない、破滅するだけの謝肉祭である。
 かくして謝肉祭は終わった。
 最終日は近所の仕出し屋から、ちょっと豪華なお弁当を取り寄せ、がらんどうになった作業場の床に生地を敷いて、工員で車座になって食べた。しかし一応そういう形は作られたものの、特に式次第があるわけでもなく、最後にセレモニーをするわけでもなく、なんとも締まらない終わりだった。新型コロナウイルスのことがなかったら、打ち上げとして酒の席は設けられただろうか。それはさすがにあっただろう、という気も、普通になかったんじゃないかな、という気もした。
 結局のところ、僕がもともと転職を考えていたことが示すように、ここは決していい会社組織ではなかったのだろうと思う。あまりやる気のある人はいなく、それはぬるま湯のようで居心地そのものは悪くないのだけど、やっぱり会社としては問題だったろうと思う。それでいて、本社になにかを言われたら急にその気になって厳しいことを課してきたりするので、落ち着かなかった。そして結果的にポシャった。なんてったってこれほどの決定打はない。立ち行かなくなって社員はみな次の仕事を探さねばならなくなった。会社としてこれほどの悪行はない。
 もっとも会社は一応の尽力はしたらしい。玉野や児島は縫製業の盛んなエリアなので、横のつながりで工員たちの働き口を世話してくれようとした様子はあった。
 とは言え世界はあまりにも新型コロナウイルスに侵食されているのだった。工場そのものを買い取ってくれる会社探しと同じで、こちらも春先くらいまでは「なんとかなるだろう」という雰囲気で事が語られていた。受け入れ枠があったのだ。それが工場の閉鎖間際になると、そちらの工場も余裕がなくなったのだろう、枠が狭まり、条件も渋くなった。それでもおばさんの中には、そこに入社した人もいたらしかった。しかし男性社員にとっては現実的な選択にはなり得なかった。やはり縫製業はつらいな、ということを改めて思った。
 そうして六月が終わり、僕は無職になった。
 もっとも七月一日は、離職票を受け取りに工場に赴いた。工場の敷地内はまだ回収されないゴミで溢れていた。午前中に完成したという出来立ての離職票を、元社員たちは元社長から受け取った。本社から派遣された埼玉県民の元社長は、後処理のためもうしばらくはこちらで単身赴任を続けるらしい。この人はそのあと会社でどういう扱われ方をするのだろう、ということを少しだけ思った。

2021年5月10日月曜日

百年前日記 12

 さて製造が終わってしまった。しかしまだ五月の中旬であった。工場が本当に閉鎖するのは六月末であり、それまでにはまだ四〇日以上もの期間があった。その間はいったいどうやって過すのか、といえば、これが特になにもないのだった。そもそも仕事がないのかなんなのか、本社もこれ以上、閉鎖ギリギリまで働けと命じてくる様子はなく、後片付けはあるにせよ、数十人の工員で何十日も掛かるはずもない。その結果、工員の我々は完全に食客のような立場で残りの一ヶ月超を過すことなった。
 こんなうまい話がこの世にあるのか、と思った。
 この頃には退職に関する条件も定まり、三年前に会社ごと買われたばかりなので退職金こそ発生しなかったが、その代わりとして一ヶ月分の給与が余分に支払われることとなった。また一斉退職となるためハローワークの職員が工場にやってきて説明会を開いたのだが、それによると会社都合の退職は、自己都合の退職に較べ、破格の扱いとなり、普通は九〇日、それも給付は三ヶ月後からなので実質受け取れる人間は少ない雇用保険も、その倍の日数分が即日給付となるという。これまでの給与に比例するという一日の給付金額をざっと算出し、それを日数で掛けて出てきた数字は殊のほか大きく、色めき立った。さらにいえばこの時期、政府による国民ひとりに対して十万円の給付やら、個人事業主である妻の持続化給付金などで、小市民のわが家はプチバブル状態にあった。
 そのため、いよいよ無職は眼前に迫ってきていたというのに、悲壮感はまるでなかった。気にしても仕方なかった。少なくとも七月八月は次の仕事のことなど考えずのんびり暮らそうという算段があったので、新型コロナウイルスで先行きが見えないこのご時世、秋以降の再就職のことを憂えてつらい気持ちになるなんてあまりに無駄なことだった。
 かくして、どこまでも平穏な日々を過した。世間の狂騒に対して、この工場だけは本当に平穏な世界だった。
 ゆるゆると片付け作業がはじまると、糸や生地、テープや金具などの資材が次々と、『ご自由にお持ちください』となって工員に振る舞われた。おばさんたちに混ざって、もちろん僕もたんまりともらって帰った。縫製工ならばいちどは夢見たことがある光景だろう。縫製に限ったことではないが、勤めている人間というのはそれなりの確率で、勤務先の扱っている物品が好きで働いているので、作業をしながら、これいいなあ、なんてことを思ったりする。しかしながらそれで持って帰ったらそれは内引きであり犯罪である。だから我慢する。その我慢をしなくていいのである。欲しいと思ったものをそのままもらって帰れる世界。ユートピアだ。
 その極めつけはミシンだった。工場で使っていた工業用ミシン。これはさすがに『ご自由に』ではないが、欲しい人には四万円で売ってくれるという話が舞い込み、すぐに申し込んだ。というのも僕がこれまで家で使っていたミシンは、東京で書店員をしていた頃に手芸に興味を抱き、池袋のビックカメラで買った三万円ほどのもので、機能的にはあまりにもちゃちなものであり、これまでもきちんと縫いたいものは工場のミシンを使っていたのだが、今後はそれができなくなるので、どうしてもいいミシンが欲しいと思っていたのである。それは妻にも伝えてあって、そのため再就職が決まったら職業用ミシンを買うという約束を取り付けていた。ちなみに職業用ミシンの新品は、八万から十万円ほどする。工業用ミシンはもちろんそれよりももっと高い。そもそも工業用ミシンは基本的に一般流通するものではない。それが今なら四万円で手に入るのだ。いつになるのか分からない再就職を待ってる場合じゃなかった。テーブルと一体型のそれは、七月以降に出入りのミシン業者が家まで運送してくれるということになり、この夏への期待がさらに高まった。
 六月も中旬になると片付けは加速し、机や棚が解体され、取っ払われ、ごちゃごちゃしていた工場の中はどんどん見通しがよくなって、ここはこんなに広い場所だったのかと驚いた。働いていた六年ほどで、いろいろな思い出があったような気も、ぜんぜんそうでもないような気もして、気持ちはいつまでも定まらなかった。

2021年5月4日火曜日

百年前日記 11

 さて縫製工場である。生き残るために必死にならなければならない、とことあるごとに言ってきて、あえなく頓死することになった縫製工場。しかし親会社からその宣告をされた時点では、まだ従業員たちには余裕があった。六月末までにはだいぶ間があって、まだピンと来ないというのもあったし、なによりそれまでにはまた別のどこかの会社がこの工場を買い取ってくれるのではないかという見通しがあった。
 そしておそらく、平時であればそれは叶ったのだ。
 しかし新型コロナの影響は苛烈で、人が出歩かなくなった世界において、アパレル業界に明るい兆しは一切なかった。ましてやこの工場が得意としていたのは高級紳士コートというジャンルであり、僕は実質この工場が右肩下がりになってからのことしか知らないのだが、普通に考えて、景気がいいときにしか繁盛しない分野であると思う。三年ほど前、親会社がこの工場を買ったときには、アベノミクスだなんだと叫ばれ、景気というのはもしかするとこれから本当に良くなってくるのかもしれないという雰囲気がたしかにあった。

(アベノミクス……?)

 しかし蓋を開けてみればコート工場の採算は、驚くほどにぜんぜん取れなかったらしい。それで閉鎖を決めたら、新型コロナがやってきて、このタイミングでの決断は慧眼だったような、しかしそんなことをいったらそもそもの買収が大間違いだったような、なんとも言えない話であるとしみじみと思う。
 緊急事態宣言下のゴールデンウィークが終わった五月上旬、この冬に向けてどうしても作らねばならなかった契約分のコートが仕上がり、四月まではそれでも何社か来ていた、この工場を買うかもしれない会社の社長という存在もすっかり姿を見せなくなり、工場内にはあきらめムードが生まれた。
 それはとても清々しいムードだった。これまで裁断場から仕上げ場まで、常にそれぞれの進捗状況の商品が血液のように流れていたが、最後のアイテムが過ぎていくと、前半の作業場から順々に、その清々しさはどんどん広がっていって、ついにそれが出荷されると、工場はもうその生命活動を完全に停止し、ただの場所となり、摂取もしなければ排泄もしない、とても清廉なものになった。経済活動というのは基本的に流れなので、製造業に限ったことではないけれど、しかし工場はそれが可視化されているため、余計に感じやすいと思う。工員は絶え間なく流れる商品を扱いながら、それで賃金を得ながら、この流れがなくなったらどれほどすっきりするだろうと夢見ずにはいられない。もちろんその夢はなるべくならば叶わないほうがいい。叶わない限り、自分は暮していけるのだから。しかし叶うときは叶う。止まるときは止まるのである。だとすればそれに立ち会った工員は、その喜びを存分に享受するべきだろうと思う。
 生きることは動くことで、もちろんそれは無条件に素晴らしいことだが、さまざまな辛苦を伴う。生老病死。老いることも病むことも死ぬことも苦しい。それもこれも生まれたがゆえに味わうはめになった。生きているから苦しい。そう思って翻るに、死の清廉さはどうだろう。しかし死ねばたぶんそれっきりなので、実際は清廉さもなにもない。ただの完全な無である。死を清廉なものと捉えるのは、猥雑な生の中にある間だけである。とはいえ傍で死にゆく者を眺めたところで、その気持ちを体感として味わうことはできない。そう考えれば、自分自身もその一部であった工場が閉鎖することになり、工場の生命活動がどんどん停止していくさまを眺めることは、現世でできる最大限の、死のシミュレーションであり、極めて貴重な体験なのではないかと思った。

2021年5月1日土曜日

百年前日記 10

 孤独になってしまった以上、いまさら後戻りはできない。もはや孤高を気取るしかない。そして孤高の人間は、そうでない人間のことを糾弾する。友達がたくさんいる人間には実社会でたくさんのメリットがあるが、友達がいない人間は、友達がたくさんいる人間を思いのままに糾弾できるということを除けばメリットはひとつもない。だから糾弾しないわけにはいかないのである。
 緊急事態宣言によってカラオケや飲み会、ライブにスポーツ観戦など、ありとあらゆることが自粛の対象となり、友達がたくさんいる人たちは苦しんだ。友達がいない人間にとっては一体なにが苦痛なのかさっぱり解らなかったが、彼らにとってそれは、どこまでもつらく、耐え忍ぶしかない日々であったらしい。その未曽有の危機に対して彼らはどのような手に打って出たかといえば、「今は我慢しようね」と盛んに言い合うことで連帯感を出していた。「繋がらない」をモットーにして繋がるこの現象を、僕は「繋がらなろうね症候群」と名付けた。どうしても人と繋がっていたい彼らにとっては、繋がらないことさえもが繋がりの象徴になるのだ。なんという執念だろうか。これまで僕は彼らのことを、精神性のない即物的な存在だと決めつけていたが、実はすごく繊細な生き物なのかもしれないと思い直した。妖精のような彼らにとっては、火を着けられずに折れてしまったマッチ棒さえもが、特上のおもちゃになるのである。
 だとすれば、やっぱり社会は、彼らだけのものだ。僕のような存在は、彼らの作り出す社会の片隅に、居心地悪く佇むよりほかない。彼らが愉しむ折れたマッチ棒に、僕は魅力を感じることがどうしてもできない。ビジネスも、キャンプも、車も、ギャンブルも、僕は興味がない。そしてただでさえ他人と共通の嗜好が見つけられないのに加えて、僕は僕の好きなものを好きな人のことが好きではないのだった。僕と僕の好きなものは、それだけの完結した世界であるべきなのに、第三者が介入して、僕の好きなものに関する、僕の知らないことなんかをひけらかされた日には、僕の好きなものは僕の好きなものではなくなってしまう。だからやっぱり僕は社会に入り込めない。社会において、社会に入り込んでいると受けられるさまざまな恩恵を享受できない。僕はこの恩恵のことを、友達クーポンと名付けた。それは物質として財布の中などに入っているわけではないが、世の中には友達クーポンというものが明確に存在する。社会はこの友達クーポンの循環で回っているといってもいい。友達クーポンは循環しているが、それはあくまで環の中をめぐるだけなので、環の外にいる人間のもとにはいつまでも舞い降りない。それは仕方ない。自分自身が、自分印の友達クーポンを発行しないのだから、相手が一方的に友達クーポンをくれるはずがないのである。この話に救いがあるとすれば、環の中にいる人間は、そのことに対して無自覚だということだ。内側にいる人間は、自分たちを客観視することができない。そのため、彼らは自分たちのやっていることの非道さに気づけない。ここまで見事な富の占有は、高等生物たる人間の所業とは思えない。福祉の概念のない下等生物のやることだと思う。
 もっとも人間が高等生物であるという前提が間違っている気もする。なにぶん文明を持っている生きものが人間だけなものだから、人間は高等生物であると無条件に認めてしまいがちだが、実はそんなことないのかもしれない。
 これまでの人生でしばしば、世界は弱肉強食だと伝えられ続けてきた。そのたびに、サバンナじゃあるまいし、なにを言っているのかと思ってきた。東京にいた頃に勤めていた書店でも、このたび働いていた縫製工場でも、「生き残るために必死にならなければならない」ということをお題目のように唱えられ続けてきた。そしてそれらの言葉は僕の胸に一切刺さることがなかったのだった。結局、書店はこの新型コロナでどんな状況になっているかと思い久しぶりにウェブで検索したらいつの間にかツタヤに吸収されて事実上消失していて、縫製工場はあえなく閉鎖である。ふたつともそもそもが斜陽産業であったとは言え、むごいと言えばあまりにもむごい。ここに感情はない。サバンナの掟に感情などあるはずがない。しかしながら棲み処を追われた動物と異なり、人間には感情がある。あってしまう。ここに人間の悲劇がある。人間の作り出した社会の仕組みは、高等なようで別にちっとも高等じゃないが、この部分の悲劇に思いを馳せることができるのは人間だけなので、だとすればここにこそ人間の高等生物的な部分は存在しうる。だから僕はいまこんな文章を書いているのかもしれない。

(少なくとも文章を書けるのは人間だけなので、そこだけを根拠に人間は高等生物であると宣言したっていいと思います)

2021年4月27日火曜日

百年前日記 9

 それにしても、どうして僕がこんなにも、大人が会社でどんなことをしているのか判らないのかといえば、それはやはり友達がいないからだろうと思う。僕にはあまりにも友達がいなかった。もともと大した数がいなかったのに、集団を離れるたびにそれまでの人間関係を清算しようとする癖があり、転職や引っ越しを繰り返した結果、いよいよ僕の周りからは友達と呼べる存在がいなくなってしまったのだった。高校や大学時代の友達が多くいれば、彼らがどんな仕事をしているのか知ることで、世の中の社会の仕組みを知ることができるだろう。友達だけでなく、友達の語る友達の友達のエピソードでもいい。そういう、「人の話」によって社会への視界はクリアになる。なぜなら社会は人でできているからだ。僕にはそれがないので、社会はいつまでも覆いが掛かったままだ。それでも自分が実社会の一員でないのならなんの問題もないのだが、そんなことはない。経営状態の悪さから勤めていた縫製工場は閉鎖が決まり、ろくな資格もないまま、新型コロナで停滞する世界において再就職活動をしなければならない。現実は過酷だ。人間関係がないので、なんのコネもツテもない。
 この癖はいつから身についてしまったのか、と思う。
 他人と長く同じ時間を過ごすと、自分にも相手にも、失敗や恥の場面が生まれる。僕はそれが嫌いなのだった。だから関係が切れてその思い出が消えると、とても清々しい気持ちになった。要するにプライドの高さということかもしれない。恥部を見せることにも、見ることにも、強い拒否感がある。取り繕った状態でしか人と接したくない。これまでこれは童貞をこじらせたせいだろうと漠然と思っていたが、考えてみたら子どもの頃からこの傾向はあったように思う。
 小学校高学年の頃だったか、テレビでどこかの地方の祭りの情景を映し出され、その土地の鬼的な生き物に襲われた子どもたちが、泣き叫びながら逃げ回っていた。無様だった。
 僕はそれを眺め、
「こんな姿を大人に見られたら地元にいたくなくなるんじゃないか」
 ということを言った。すると一緒にそれを観ていた母親が、
「そんなこと言ったら子どもなんて、これよりもよっぽど恥ずかしい場面をいくらでも見られてるんだから」
 と言ったのだった。
 それを聞いて僕はとてもつらい気持ちになった。
 産まれたときには皺だらけの赤い顔で、糞尿を垂れ流し、母の乳房に吸い付き、僕は育った。人はそれを経なければ成長できない。つまり人とは恥ずかしいものなのだ。だとすれば成長してから取り繕ってもなんの意味もない。そう吹っ切れる人間と、じゃあ自分の恥ずかしい場面を知らない人しかいない世界へ行こうと考える人間がいる。ここに人それぞれの人間関係のスタンスがある。僕は完全に後者だ。しかし恥ずかしい場面を実際に見られていなくても、生きているということはすなわち恥ずかしいことをたくさん経てきたということなので、避けたところで実はあまり意味がない。その意味の乏しいことに固執した結果が、いまの孤独だ。

(プライドを持っていたら損、プライドで飯は食えない、というのはたしかに真実ではありますけど、プライドのまるでない人間ほど醜悪なものもないと思います。獣から分離して文化と自意識を持つことにした人類にとって、これは永遠の命題でしょう)

2021年4月24日土曜日

百年前日記 8

 三月の中旬ごろ、まだ人々が抱くべき絶望感のスケールを見定めることができずにいた時期、スーパーの棚から保存のきく食品が消えるということがあった。それはほんの一時期のことだったし、完全に食材が手に入らなくなったわけではなかったが、それでもお店に行ったのに食べ物が置いていないということに、すさまじい衝撃を受けた。はるか昔、狩猟で食べ物を手に入れていた時代に比べ、自分はとても安定した時代に生まれ育っていると思っていて、たしかにそれは真実ではあるのだけど、しかし結局のところスーパーへの安定供給が止まってしまったら、狩猟時代となんの違いもなく、我々は飢えてしまう。子どもに食べさせるものがなくなってしまう。
 この地面、実は薄氷なんじゃないか、と僕はそのとき悟った。

(人類の歴史とは、その薄氷をなるべく厚くする歴史であるともいえます。ただしそれはきわめて難しい。なぜならその薄氷とは、すなわち生老病死だからです。生老病死を克服するということは、生命体として存在しないということです。結局のところ我々は生きている以上、薄氷の上にしか立っていられないのだと思います)

 緊急事態宣言により人が動かないことが求められた結果、テレワークという働き方が一気に推奨されるようになった。これまでも理想論としては語られてはいたものの、一向に実現する気配はなかったのが、戦争が科学技術を躍進させるように、必要に迫られたら物事はすさまじいスピードで進展するものらしかった。
 これは実際のオフィスに出勤することなく、自宅のパソコンで仕事を行なうという働き方のことで、それが可能な職業はなるべくそうしていただきたい、と政府は要請した。
 もちろん製造業である僕にそんな話はまるで関係なく、むしろこの時期は工場として集大成となる生産がいちばん忙しい時期だった。もっとも感染の拡大というのも、東京や大阪の繁華街が中心の話で、岡山県の片田舎で人の出入りもなく作業をする人間たちにとってはどこまでも縁遠い話だった。工場の周りに駅はなく、公共の乗り物を利用して通勤する人間はひとりもいなかった。
 そのためすぐには関係のない話だったのだが、七月以降は別の仕事に就かなければならない立場からすれば、そういう社会の動向は、無関係な話ではもちろんなかった。次の就職先として、縫製業は先行きの不安から除外するとして、今度はいわゆるオフィスワーカーになりたいと思っていた。ただしオフィスワーカーとはなにか、と問われたら明確な答えは持っていない。そもそも僕は、大人が会社でどんな仕事をしているのか、いまだによく判っていないのだった。作る人と、売る人と、事務的なことをする人という、だいたいその三つくらいでありとあらゆる会社というのはできていて、じゃあいざとなったら通勤せずにパソコンだけで仕事ができてしまう人間というのは、そのうちのどれなのか。そもそもそれって本当に世界にとって必要な仕事なのか。これまで現場での労働にばかり従事していたので、そういう本当に必要なのか怪しい立場の仕事に限って、やけに報酬が高そうだという悪い印象もあった。
 テレワークの推進によってそのあたりの矜持が刺激され、パソコンで完結してしまう仕事なんて幻のようで空しいではないか、と思うようになった。仕事というのは、やっぱり実際に手掛けてなんぼのものだろう、と。

(この選択は正しいと思いますよ。コンピュータで完結できることを人間がする意味はまるでないですからね)
 

2021年4月23日金曜日

百年前日記 7

 東京オリンピックの一年延期が発表されたのもこの時期だった。どう考えても四ヶ月後に開催することなんてできないということはもっと前からみんな判っていたが、さまざまな利権問題もあって決定までに時間が掛かったようだった。
 僕は東京オリンピックそのものにはそこまで興味がなかった。自国開催を経験するのはもちろん初めてだったが、とは言え舞台は東京である。競技場も知らない所ばかりだし、時差がないことを除けば外国での開催とそう違いがあるとも思えなかった。
 それでも強いて唯一特別な感情があるとするならば、八年前の二〇一二年、ロンドンオリンピックが開催された夏、僕はそれまで勤めていた書店を退職し、七月に島根へ移住して、秋に酒造会社に就職するまでヘラヘラと暮したので、無職状態で大会を眺めた(もっとも時間はたっぷりあったはずだが、もともとの興味のなさから、そこまで眺めなかった)こととなり、本来ならば今回も二大会ぶりに、無職状態で相対するオリンピックになるはずだった。オリンピックというものに対して、そういう感慨があった。しかしその予定はあえなく頓挫した。

(そうか。まさにこのときが、あの東京オリンピックの年だったのですね。そしてこの文章が書かれた時点では、まだ実際にオリンピックがどうなったかは判っていないのですね。まあ、ちょっとあんまりな結末でしたね)

 東京オリンピックの延期が発表されて踏ん切りがついたのか、四月に入り、いよいよ緊急事態宣言なるものが政府から発令された。これは国民の活動をとにかく小さくし、交流を減らすことによって感染の拡大を止めることを目的にした施策で、これまでの日々で十分に判ってはいたが、やっぱり今って後世に残る緊急事態なのだな、ということをこの宣言によって改めて強く実感した。
 おとなしく家にいることが奨励され、そこから逸脱した行動を取った人間は、実際にウイルスに感染したかどうかは関係なく糾弾された。自粛警察という言葉が生まれ、彼らの取り締まりは苛烈だった。この現象に対して、八〇年ほど前の、太平洋戦争へとなだれ込む軍国主義時代のことを想起しない人間がいただろうか。国への隷従が強要され、一億総火の玉を合言葉に突き進み、命を惜しんで反戦の素振りを見せようものなら非国民として吊し上げられたというあの時代。もちろん反戦が理念であるのに対し、伝染病が蔓延しているのに不用意な行動を取ることは理念でもなんでもない。ある程度の批判はされてしかるべきである。それでも僕がショックだと思ったのは、市民による相互監視の雰囲気というのは、こうも簡単に、日常生活から地続きで形成されるのかという、そのことだった。
 日常とは思っていたよりもはるかに脆いものなのだと、新型コロナウイルスによって僕は悟った。

2021年4月22日木曜日

百年前日記 6

 作るとなったら、資材を買いに行かねばならない。妻が使ったように、家には資材があったといえばあったのだけど、それは決して布マスクを作るために買ったものではなかった。布マスクを作るには、そのための生地を買わなければならない。そしてそうやって目的買いしたものは、完全に使い切るわけではないので、結果的に家には資材がどんどん増えることとなる。これまではそのことに対していくらか自制心も働いていたのだが、最近では娘たちが手芸をしたりするようになってきたため、娘が使うかもしれないし……、という言い訳が立つようになって、いよいよ歯止めがかからなくなった。
 そんなわけで赴いた手芸屋だったのだけど、普段と様子が違っていた。まず駐車場が空いていない。こんなことは初めてだった。それでもなんとか車を停めて入店すると、店内は大勢のおばさんたちで殺気立っていた。僕も含めて、ここにいる人たちはみな、布マスクの資材を買いに来ているらしかった。三月下旬、どの家でもインフルエンザ用に昨年末あたりに買っておいたマスクの残量が心許なくなり、しかしながら不織布マスクの店頭価格は法外で、布マスク作りへの重い腰を上げるタイミングなのであった。
 普段は手芸屋に来ないような層も多くいるようで、店員に質問をしたいが、感染対策として店員に質問するのは控えてくれとポスターで告知されているし、そもそも店員はみな大行列の裁断やレジ業務でそれどころではない。その結果として、店内にはフラストレーションが横溢していた。
 これは後日、この当時よりはいくらか落ち着いた時期に手芸屋に行ったときのことだが、接着芯の売り場に、これまでにはなかった「これは接着芯です!」という注意が掲示されていた。どういうことかというと、たぶん薄手の接着芯をガーゼと誤解して買った者がいたのだろう。その手芸初心者のことを思うと、胸が痛む。なんとか材料を買い揃え、慣れないミシンをして、いよいよ完成という段階で、アイロンをかけたらくっついてしまったのだ。接着が溶けて裏表の生地がくっついたマスクは、その接着芯本来の機能性ゆえ、呼吸がままならなかったことだろう。切なすぎる。
 斯様な手芸屋狂騒の風景もまた、戦中戦後らしい感じがあったし、さらに遡って文明開化の時代のようでもあった。誰もが手探りで、受け入れることにしたものと受け入れないことにしたものを取捨選択していた。「新しい生活様式」というフレーズが唱えられはじめるのはここからもう少しだけ先だが、いまから約一五〇年前、江戸から明治へと時代が移り変わるときの人々の気持ちが、少しだけ解ったような気がした。

(結局のところ、人間という生き物そのものは、ライオンやウサギが変わらないように、いつの時代も変わっていないということでしょう。文明の進歩やそれに見合う社会常識は、体にまとわりついている程度のもので、文明開化や戦争やパンデミックといった強い風が吹くと、簡単に吹き飛んでしまうのだと思います)

 そんな狂乱の手芸屋で、僕はなんとかマスクの資材を手に入れた。ダブルガーゼは棚にはなく、裁断場でひとり一メートルに限っての販売だった。配給のようだ、とやはりそんなことを思った。
 そうして満を持して作ったマスクは、すばらしい出来映えだった。マスクそのものは、ウェブ上に作り方が公開されていたオーソドックスなプリーツ型なのだが、なんといっても表地のセレクトがよかった。五種類ほど選んだのだが、どれもかなり派手でありながら品もあり、さすがだ、さすがは僕だ、と思った。家にあったガーゼ生地も使い、三〇枚ほど作れたので、自分たち一家で使うほか、両方の実家にも送ってやった。それに対して「助かる! すごくいいね!」という反応が返ってくるのは当然のことなので当てにはならないが、作ったものを職場に着けていったら、同僚のおばさんたちから大絶賛を浴びたので、やはり傑出した仕上がりだったことは間違いなかった。
 実はこの春先から、ウェブ上でハンドメイド作品を販売するサイトに登録をしていて、オリジナルキャラクターをアイロンプリントでバッグにデザインしたものなどを出品していたのだが、そこで布マスクも出品したらどうだろうかと一瞬考えた。でも実行には移さなかった。布マスクの出品は禁止ではなかったのだが、いちおう衛生関係なので無責任に販売していいものかという思いがあったのと、あとはなにより、この時期にマスクで金儲けを目論んだら駄目だろうと思ったのだった。不織布マスクの高値販売にあぐねて布マスクを作ったのに、布マスクで商売をはじめたらミイラ取りがミイラそのままである。
 加えてこの数週間前に、山梨県の女子中学生が新型コロナウイルスの流行を受け、貯めていたお小遣いで資材を購入して大量の布マスクを作り、すべて福祉施設に寄付したというニュースがあったので、そのことを思ってもやはり販売はためらわれた。
 もっとも世の中は布マスクの販売が大ブームで、いろんなお店のレジ横に、お店の人が作ったのだろう布マスクが売られていた。衛生観念や倫理観などはなぎ倒し、新しく着けなければならなくなったこの装飾具をみんなで愉しもうじゃないかという、商売人のたくましさを見た。これは正しいことだ。コロナ禍を通して、経済を回すことの大切さを思い知った。しかし一方で山梨の女子中学生の行動もまた、もちろん正しい。
 マスクで儲けるのはいかがなものかと逡巡するだけだった僕ばかりが、正しくなかった。