商品という血流がなくなったあと、機械や設備という内部構造も瓦解して、工場という巨大な生き物は、もはや外殻だけの存在となった。その一連の作業を通して、工員とは本当にバクテリアのような存在なのだな、としみじみと思った。本当はずっと寄生していたほうがいいのだけど、なにかの弾みで宿主のバランスが崩れると、共倒れになる。それまで血液内の栄養分とかを掠め取って暮していたのが、肉体を自由に食べることができるようになるので一時的にフィーバーが起るが、それは食べてしまえば回復することは一切ない、破滅するだけの謝肉祭である。
かくして謝肉祭は終わった。
最終日は近所の仕出し屋から、ちょっと豪華なお弁当を取り寄せ、がらんどうになった作業場の床に生地を敷いて、工員で車座になって食べた。しかし一応そういう形は作られたものの、特に式次第があるわけでもなく、最後にセレモニーをするわけでもなく、なんとも締まらない終わりだった。新型コロナウイルスのことがなかったら、打ち上げとして酒の席は設けられただろうか。それはさすがにあっただろう、という気も、普通になかったんじゃないかな、という気もした。
結局のところ、僕がもともと転職を考えていたことが示すように、ここは決していい会社組織ではなかったのだろうと思う。あまりやる気のある人はいなく、それはぬるま湯のようで居心地そのものは悪くないのだけど、やっぱり会社としては問題だったろうと思う。それでいて、本社になにかを言われたら急にその気になって厳しいことを課してきたりするので、落ち着かなかった。そして結果的にポシャった。なんてったってこれほどの決定打はない。立ち行かなくなって社員はみな次の仕事を探さねばならなくなった。会社としてこれほどの悪行はない。
もっとも会社は一応の尽力はしたらしい。玉野や児島は縫製業の盛んなエリアなので、横のつながりで工員たちの働き口を世話してくれようとした様子はあった。
とは言え世界はあまりにも新型コロナウイルスに侵食されているのだった。工場そのものを買い取ってくれる会社探しと同じで、こちらも春先くらいまでは「なんとかなるだろう」という雰囲気で事が語られていた。受け入れ枠があったのだ。それが工場の閉鎖間際になると、そちらの工場も余裕がなくなったのだろう、枠が狭まり、条件も渋くなった。それでもおばさんの中には、そこに入社した人もいたらしかった。しかし男性社員にとっては現実的な選択にはなり得なかった。やはり縫製業はつらいな、ということを改めて思った。
そうして六月が終わり、僕は無職になった。
もっとも七月一日は、離職票を受け取りに工場に赴いた。工場の敷地内はまだ回収されないゴミで溢れていた。午前中に完成したという出来立ての離職票を、元社員たちは元社長から受け取った。本社から派遣された埼玉県民の元社長は、後処理のためもうしばらくはこちらで単身赴任を続けるらしい。この人はそのあと会社でどういう扱われ方をするのだろう、ということを少しだけ思った。
かくして謝肉祭は終わった。
最終日は近所の仕出し屋から、ちょっと豪華なお弁当を取り寄せ、がらんどうになった作業場の床に生地を敷いて、工員で車座になって食べた。しかし一応そういう形は作られたものの、特に式次第があるわけでもなく、最後にセレモニーをするわけでもなく、なんとも締まらない終わりだった。新型コロナウイルスのことがなかったら、打ち上げとして酒の席は設けられただろうか。それはさすがにあっただろう、という気も、普通になかったんじゃないかな、という気もした。
結局のところ、僕がもともと転職を考えていたことが示すように、ここは決していい会社組織ではなかったのだろうと思う。あまりやる気のある人はいなく、それはぬるま湯のようで居心地そのものは悪くないのだけど、やっぱり会社としては問題だったろうと思う。それでいて、本社になにかを言われたら急にその気になって厳しいことを課してきたりするので、落ち着かなかった。そして結果的にポシャった。なんてったってこれほどの決定打はない。立ち行かなくなって社員はみな次の仕事を探さねばならなくなった。会社としてこれほどの悪行はない。
もっとも会社は一応の尽力はしたらしい。玉野や児島は縫製業の盛んなエリアなので、横のつながりで工員たちの働き口を世話してくれようとした様子はあった。
とは言え世界はあまりにも新型コロナウイルスに侵食されているのだった。工場そのものを買い取ってくれる会社探しと同じで、こちらも春先くらいまでは「なんとかなるだろう」という雰囲気で事が語られていた。受け入れ枠があったのだ。それが工場の閉鎖間際になると、そちらの工場も余裕がなくなったのだろう、枠が狭まり、条件も渋くなった。それでもおばさんの中には、そこに入社した人もいたらしかった。しかし男性社員にとっては現実的な選択にはなり得なかった。やはり縫製業はつらいな、ということを改めて思った。
そうして六月が終わり、僕は無職になった。
もっとも七月一日は、離職票を受け取りに工場に赴いた。工場の敷地内はまだ回収されないゴミで溢れていた。午前中に完成したという出来立ての離職票を、元社員たちは元社長から受け取った。本社から派遣された埼玉県民の元社長は、後処理のためもうしばらくはこちらで単身赴任を続けるらしい。この人はそのあと会社でどういう扱われ方をするのだろう、ということを少しだけ思った。