さて縫製工場である。生き残るために必死にならなければならない、とことあるごとに言ってきて、あえなく頓死することになった縫製工場。しかし親会社からその宣告をされた時点では、まだ従業員たちには余裕があった。六月末までにはだいぶ間があって、まだピンと来ないというのもあったし、なによりそれまでにはまた別のどこかの会社がこの工場を買い取ってくれるのではないかという見通しがあった。
そしておそらく、平時であればそれは叶ったのだ。
しかし新型コロナの影響は苛烈で、人が出歩かなくなった世界において、アパレル業界に明るい兆しは一切なかった。ましてやこの工場が得意としていたのは高級紳士コートというジャンルであり、僕は実質この工場が右肩下がりになってからのことしか知らないのだが、普通に考えて、景気がいいときにしか繁盛しない分野であると思う。三年ほど前、親会社がこの工場を買ったときには、アベノミクスだなんだと叫ばれ、景気というのはもしかするとこれから本当に良くなってくるのかもしれないという雰囲気がたしかにあった。
(アベノミクス……?)
しかし蓋を開けてみればコート工場の採算は、驚くほどにぜんぜん取れなかったらしい。それで閉鎖を決めたら、新型コロナがやってきて、このタイミングでの決断は慧眼だったような、しかしそんなことをいったらそもそもの買収が大間違いだったような、なんとも言えない話であるとしみじみと思う。
緊急事態宣言下のゴールデンウィークが終わった五月上旬、この冬に向けてどうしても作らねばならなかった契約分のコートが仕上がり、四月まではそれでも何社か来ていた、この工場を買うかもしれない会社の社長という存在もすっかり姿を見せなくなり、工場内にはあきらめムードが生まれた。
それはとても清々しいムードだった。これまで裁断場から仕上げ場まで、常にそれぞれの進捗状況の商品が血液のように流れていたが、最後のアイテムが過ぎていくと、前半の作業場から順々に、その清々しさはどんどん広がっていって、ついにそれが出荷されると、工場はもうその生命活動を完全に停止し、ただの場所となり、摂取もしなければ排泄もしない、とても清廉なものになった。経済活動というのは基本的に流れなので、製造業に限ったことではないけれど、しかし工場はそれが可視化されているため、余計に感じやすいと思う。工員は絶え間なく流れる商品を扱いながら、それで賃金を得ながら、この流れがなくなったらどれほどすっきりするだろうと夢見ずにはいられない。もちろんその夢はなるべくならば叶わないほうがいい。叶わない限り、自分は暮していけるのだから。しかし叶うときは叶う。止まるときは止まるのである。だとすればそれに立ち会った工員は、その喜びを存分に享受するべきだろうと思う。
生きることは動くことで、もちろんそれは無条件に素晴らしいことだが、さまざまな辛苦を伴う。生老病死。老いることも病むことも死ぬことも苦しい。それもこれも生まれたがゆえに味わうはめになった。生きているから苦しい。そう思って翻るに、死の清廉さはどうだろう。しかし死ねばたぶんそれっきりなので、実際は清廉さもなにもない。ただの完全な無である。死を清廉なものと捉えるのは、猥雑な生の中にある間だけである。とはいえ傍で死にゆく者を眺めたところで、その気持ちを体感として味わうことはできない。そう考えれば、自分自身もその一部であった工場が閉鎖することになり、工場の生命活動がどんどん停止していくさまを眺めることは、現世でできる最大限の、死のシミュレーションであり、極めて貴重な体験なのではないかと思った。