孤独になってしまった以上、いまさら後戻りはできない。もはや孤高を気取るしかない。そして孤高の人間は、そうでない人間のことを糾弾する。友達がたくさんいる人間には実社会でたくさんのメリットがあるが、友達がいない人間は、友達がたくさんいる人間を思いのままに糾弾できるということを除けばメリットはひとつもない。だから糾弾しないわけにはいかないのである。
緊急事態宣言によってカラオケや飲み会、ライブにスポーツ観戦など、ありとあらゆることが自粛の対象となり、友達がたくさんいる人たちは苦しんだ。友達がいない人間にとっては一体なにが苦痛なのかさっぱり解らなかったが、彼らにとってそれは、どこまでもつらく、耐え忍ぶしかない日々であったらしい。その未曽有の危機に対して彼らはどのような手に打って出たかといえば、「今は我慢しようね」と盛んに言い合うことで連帯感を出していた。「繋がらない」をモットーにして繋がるこの現象を、僕は「繋がらなろうね症候群」と名付けた。どうしても人と繋がっていたい彼らにとっては、繋がらないことさえもが繋がりの象徴になるのだ。なんという執念だろうか。これまで僕は彼らのことを、精神性のない即物的な存在だと決めつけていたが、実はすごく繊細な生き物なのかもしれないと思い直した。妖精のような彼らにとっては、火を着けられずに折れてしまったマッチ棒さえもが、特上のおもちゃになるのである。
だとすれば、やっぱり社会は、彼らだけのものだ。僕のような存在は、彼らの作り出す社会の片隅に、居心地悪く佇むよりほかない。彼らが愉しむ折れたマッチ棒に、僕は魅力を感じることがどうしてもできない。ビジネスも、キャンプも、車も、ギャンブルも、僕は興味がない。そしてただでさえ他人と共通の嗜好が見つけられないのに加えて、僕は僕の好きなものを好きな人のことが好きではないのだった。僕と僕の好きなものは、それだけの完結した世界であるべきなのに、第三者が介入して、僕の好きなものに関する、僕の知らないことなんかをひけらかされた日には、僕の好きなものは僕の好きなものではなくなってしまう。だからやっぱり僕は社会に入り込めない。社会において、社会に入り込んでいると受けられるさまざまな恩恵を享受できない。僕はこの恩恵のことを、友達クーポンと名付けた。それは物質として財布の中などに入っているわけではないが、世の中には友達クーポンというものが明確に存在する。社会はこの友達クーポンの循環で回っているといってもいい。友達クーポンは循環しているが、それはあくまで環の中をめぐるだけなので、環の外にいる人間のもとにはいつまでも舞い降りない。それは仕方ない。自分自身が、自分印の友達クーポンを発行しないのだから、相手が一方的に友達クーポンをくれるはずがないのである。この話に救いがあるとすれば、環の中にいる人間は、そのことに対して無自覚だということだ。内側にいる人間は、自分たちを客観視することができない。そのため、彼らは自分たちのやっていることの非道さに気づけない。ここまで見事な富の占有は、高等生物たる人間の所業とは思えない。福祉の概念のない下等生物のやることだと思う。
もっとも人間が高等生物であるという前提が間違っている気もする。なにぶん文明を持っている生きものが人間だけなものだから、人間は高等生物であると無条件に認めてしまいがちだが、実はそんなことないのかもしれない。
これまでの人生でしばしば、世界は弱肉強食だと伝えられ続けてきた。そのたびに、サバンナじゃあるまいし、なにを言っているのかと思ってきた。東京にいた頃に勤めていた書店でも、このたび働いていた縫製工場でも、「生き残るために必死にならなければならない」ということをお題目のように唱えられ続けてきた。そしてそれらの言葉は僕の胸に一切刺さることがなかったのだった。結局、書店はこの新型コロナでどんな状況になっているかと思い久しぶりにウェブで検索したらいつの間にかツタヤに吸収されて事実上消失していて、縫製工場はあえなく閉鎖である。ふたつともそもそもが斜陽産業であったとは言え、むごいと言えばあまりにもむごい。ここに感情はない。サバンナの掟に感情などあるはずがない。しかしながら棲み処を追われた動物と異なり、人間には感情がある。あってしまう。ここに人間の悲劇がある。人間の作り出した社会の仕組みは、高等なようで別にちっとも高等じゃないが、この部分の悲劇に思いを馳せることができるのは人間だけなので、だとすればここにこそ人間の高等生物的な部分は存在しうる。だから僕はいまこんな文章を書いているのかもしれない。
(少なくとも文章を書けるのは人間だけなので、そこだけを根拠に人間は高等生物であると宣言したっていいと思います)