2021年5月10日月曜日

百年前日記 12

 さて製造が終わってしまった。しかしまだ五月の中旬であった。工場が本当に閉鎖するのは六月末であり、それまでにはまだ四〇日以上もの期間があった。その間はいったいどうやって過すのか、といえば、これが特になにもないのだった。そもそも仕事がないのかなんなのか、本社もこれ以上、閉鎖ギリギリまで働けと命じてくる様子はなく、後片付けはあるにせよ、数十人の工員で何十日も掛かるはずもない。その結果、工員の我々は完全に食客のような立場で残りの一ヶ月超を過すことなった。
 こんなうまい話がこの世にあるのか、と思った。
 この頃には退職に関する条件も定まり、三年前に会社ごと買われたばかりなので退職金こそ発生しなかったが、その代わりとして一ヶ月分の給与が余分に支払われることとなった。また一斉退職となるためハローワークの職員が工場にやってきて説明会を開いたのだが、それによると会社都合の退職は、自己都合の退職に較べ、破格の扱いとなり、普通は九〇日、それも給付は三ヶ月後からなので実質受け取れる人間は少ない雇用保険も、その倍の日数分が即日給付となるという。これまでの給与に比例するという一日の給付金額をざっと算出し、それを日数で掛けて出てきた数字は殊のほか大きく、色めき立った。さらにいえばこの時期、政府による国民ひとりに対して十万円の給付やら、個人事業主である妻の持続化給付金などで、小市民のわが家はプチバブル状態にあった。
 そのため、いよいよ無職は眼前に迫ってきていたというのに、悲壮感はまるでなかった。気にしても仕方なかった。少なくとも七月八月は次の仕事のことなど考えずのんびり暮らそうという算段があったので、新型コロナウイルスで先行きが見えないこのご時世、秋以降の再就職のことを憂えてつらい気持ちになるなんてあまりに無駄なことだった。
 かくして、どこまでも平穏な日々を過した。世間の狂騒に対して、この工場だけは本当に平穏な世界だった。
 ゆるゆると片付け作業がはじまると、糸や生地、テープや金具などの資材が次々と、『ご自由にお持ちください』となって工員に振る舞われた。おばさんたちに混ざって、もちろん僕もたんまりともらって帰った。縫製工ならばいちどは夢見たことがある光景だろう。縫製に限ったことではないが、勤めている人間というのはそれなりの確率で、勤務先の扱っている物品が好きで働いているので、作業をしながら、これいいなあ、なんてことを思ったりする。しかしながらそれで持って帰ったらそれは内引きであり犯罪である。だから我慢する。その我慢をしなくていいのである。欲しいと思ったものをそのままもらって帰れる世界。ユートピアだ。
 その極めつけはミシンだった。工場で使っていた工業用ミシン。これはさすがに『ご自由に』ではないが、欲しい人には四万円で売ってくれるという話が舞い込み、すぐに申し込んだ。というのも僕がこれまで家で使っていたミシンは、東京で書店員をしていた頃に手芸に興味を抱き、池袋のビックカメラで買った三万円ほどのもので、機能的にはあまりにもちゃちなものであり、これまでもきちんと縫いたいものは工場のミシンを使っていたのだが、今後はそれができなくなるので、どうしてもいいミシンが欲しいと思っていたのである。それは妻にも伝えてあって、そのため再就職が決まったら職業用ミシンを買うという約束を取り付けていた。ちなみに職業用ミシンの新品は、八万から十万円ほどする。工業用ミシンはもちろんそれよりももっと高い。そもそも工業用ミシンは基本的に一般流通するものではない。それが今なら四万円で手に入るのだ。いつになるのか分からない再就職を待ってる場合じゃなかった。テーブルと一体型のそれは、七月以降に出入りのミシン業者が家まで運送してくれるということになり、この夏への期待がさらに高まった。
 六月も中旬になると片付けは加速し、机や棚が解体され、取っ払われ、ごちゃごちゃしていた工場の中はどんどん見通しがよくなって、ここはこんなに広い場所だったのかと驚いた。働いていた六年ほどで、いろいろな思い出があったような気も、ぜんぜんそうでもないような気もして、気持ちはいつまでも定まらなかった。