2021年1月31日日曜日

1月締め日曜

 冬の山陰にしては珍しい、気持ちよく晴れた日曜日だったので、一家で近所の散歩をする。引っ越してきて約4週間になるが、バタバタしてたり、天候が悪かったりで、まだいちどもそういうことができていなかった。ファルマンと子どもらは、それでも小学校までの道のりを歩いたりしているが、僕は本当に近所を歩くということをしていなかった。車を停めている少し先にごみ捨て場があり、僕の徒歩移動範囲は4週間そこから更新されなかった。そこから先はもう僕にとって車窓の風景なのだった。そんな場所を、初めて歩いた。
 その結果、車窓から眺めていて察してはいたけれど、やはりここはとてつもなくのどかな場所であると思った。島根で暮すのは初めてではなく、当時の住まいである実家から今の場所がそう離れているわけでもないのだが、それと較べても、のどかさが一段ちがう。決して寂れているとか廃れているということではない。もちろん栄えてもいないけれど。あまりうまくいえない。ファルマンと語り合った結果、「どうもここには四半世紀くらい前の雰囲気がある」という感じが、今のところ最も適切な表現だということになった。時代がそこらへんで止まっている。本当にそういう感じがある。まるで「平成狸合戦ぽんぽこ」のラストのようだと思う。なんかしらの作用により、狸たちの体力が無尽蔵になって、このエリアだけいつまでも往時の姿が再現され続けているのではないか。
 散歩には、子どもたちは跳び縄を、僕はバトンを持っていった。家から歩いて5分ほどの距離にある野原に着くと、空にはポンッという効果音で示されるような、白い雲がありのままの姿で浮かんでいて、岡山だって大概だったけど、それにしたってここまで雲のあられもない、無防備な全景はそう目にしなかったはずだ、と思った。野原、のはらというより、それをさかさまにして、げんやといったほうが適切な原野は、向こう側にも、こちら側にも、どこまでも続いていて、そして他人はひとりもいなかった。どこにもありはしない幻想世界の話をしているのではない。車で1時間半かかる場所の話を話をしているのでもない。家から徒歩5分の場所の話をしている。そこでひとしきり、縄跳びやバトンをして過した。僕も少しだけ縄跳びをしたけれど、やはり神経痛が響くのですぐに止した。バトンはものすごく久しぶりに回した。いったいいつ以来だろう。昨秋に回す機会があったろうか。当然、腕のなまりを感じた。もっとも冬で手の脂がないというマイナス条件もある。春になれば花畑の中でバトンを回したい。
 今日はその散歩以外、買い物で街に繰り出すようなことは一切せず、ひたすら家で過した。
 午前は桃鉄をした。桃鉄は、去年末にswitchで最新作が出たとかで目につく機会が多くあり、したい欲求が高まっていたところに、ファルマンの実家にもう誰も使っていないPS2があり、そして僕はPS2版の桃鉄のソフトを持っている、という要素が合わさり、実現した。僕とファルマンとポルガがそれぞれプレイし、ピイガはそのときどきで調子のよさそうな人のチームになり、あとひとりはコンピュータというメンツで、30年の予定で始めた。桃鉄は長年やったほうが絶対におもしろいので、これから気長にやろうと思う。1年が20分くらいなので、1日に1年ずつやるのも悪くない。今日は時間があったので7年くらいやった。ポルガはひどく気に入ったようで、やっぱり桃鉄はすごいなと思った。
 午後は裁縫。子どもたちの誕生日プレゼントとして、それぞれ裁縫のキットを買い与え、ポルガはショルダーバッグ、ピイガはクマのぬいぐるみを、世話してやりながら作業した。完成まではまだ時間がかかりそうで苦難の道だが、子どもたちが手芸や裁縫をしたがるのはやはり嬉しい。
 そんなおだやかな日曜日だった。1月も最終日で、5日にこちらにやってきて、まあようやくある程度は落ち着いたかな、と思う。住まいに関しては、環境も設備も、本当にいい選択をしたと思っている。暮しがどんどん心地よくなっていけばいい。

2021年1月29日金曜日

神経痛ブログ

  この1週間、毎食後せっせと帯状疱疹の薬を服み、腹から脇まで帯状に伸びた疱疹は、それ以上は伸びることなく、無事に枯れた。いまはかさぶたのようになっている。痕が残らないか不安だ。たぶん、ほとんどは消えるけれど、完全に消えるということはないのだろうと思う。若い人は傷の治りが早い、というのは誰もが知っている有名な事実だけど、若い人は傷の治り方の完璧度が高い、という事実も、それより有名ではないけれど確実にある。最近になって、体がそこまできれいな復元を追い求めなくなってきたような気がする。追い求めなくなってきたというより、られなくなってきたのかもしれない。ほかに(そもそも原資が減少気味の)生命エネルギーを注ぐべき部分はごまんとあるので、これからなにをする体でもなし、別にいいじゃないか、ということか。シビアだな。そろそろ俺もグラビアアイドル活動は潮時か。
 シビアといえば、帯状疱疹を発症したあとに発生しがちだという帯状疱疹後神経痛が、まんまと発生していて、この痛みというのが、なんともシビアな、大人の痛みだ。成長期の骨が伸びてきしむ痛みとはぜんぜん別種の、きしむ痛み。このふたつの「きしむ」は、同じ音でも別の漢字を当てたほうがいいと思う。たとえば嬉志夢と危肢無みたいに。「イタタタタ!」という陽の痛みではなく、「……ッンンン」という陰の痛み。そもそも神経痛という言葉が嫌だ。温泉の効能に必ず書かれていて、しかしこれまでピンと来ていなかったワード、神経痛。得てみて初めて、なるほど、手術とか、薬とか、そういうんじゃなくて、鉱物をたくさん含んだぬるめの温泉にじっくり浸かる以外にこれは対策の打ちようがないな、と得心がいった。
 先週の土曜日に医者にかかり、誕生日パーティーをしらふで過すはめになったまま、なにぶん服薬中のため、もうかれこれ1週間も飲酒をしていない。これまで奴隷のようにこき使われいてた肝臓が、急に自由の身になってしまって、逆に戸惑っているのではないかと危惧さえ抱く。それにしても、神経痛の疼痛で気持ちが落ち込み気味なのに、それをアルコールで癒すことができないとなってしまっては、いったい心はどういう手段で浮上していけばいいのか。さらにいえば激しい運動もよくないので、筋トレもできない。なので本当に粛々と過している。山陰の冬の薄暗さ、つらさもあって、もういっそ冬眠できてしまえばいいのに、と思う。桜の花びらを鼻先に差し出してくれれば、その香りで目を覚ますから、それまでそっとしておいてほしい。

2021年1月26日火曜日

夢の中で

 転入生になる夢を見た。つまり夢の中の僕は学生だった。とはいえさすがに中高生になるまでは想像の翼がはためかなかったようで、私服だったし、たぶん設定としては大学生だったのだと思う。大学生だとしたら実際は転入生もなにもないが、そこは夢なので、ご都合主義なのだった。
 転入したクラスのメイトたちはみな明るく、いい人たちで、現実では、僕なしの状態で既に明るく成り立っていた空間なんて、もうそれだけで拒否感が湧くのだけど、夢の中の僕はそのあたりに寛容で、素直に「みな明るく、いい人たちだなあ」と受け入れていた。あるいはやっぱり僕プロデュースの夢なので、その集団は絶妙に僕好みの明るさ度合、貞節度合、謙虚度合、上品度合に仕立てられていたのかもしれない。
 そのクラスにはマドンナ的な女もいて、なるほどかわいく、しかも初対面だというのにスキンシップが濃厚だった。こいつ俺に気があるんじゃないか、とすかさず思った。
 そのあと男子グループとだべっていたところ、その中のひとり、どうやらみんなから一目置かれている、学級委員とかじゃないけどクラスでの発言力はそれ以上、みたいな男と、やけに気が合うのを感じた。向こうも僕に対してそう思っているに違いないという確信も抱いた。ああ俺はみんなから一目置かれているこいつと、対等な感じの親友になるな、と思った。
 やがて他の男子はいなくなり、僕と彼がふたりで盛り上がっていたら、そこへマドンナがやってくる。マドンナはすぐに親友のようになった僕たちを見て、眩しそうにする。そしてさすがはマドンナらしく、自然な感じでわれわれの会話に入ってくるのだった。
 みんなから一目置かれているやつと、マドンナと、そして俺という3人で、これから輝かしい日々が始まるのだな、と胸が躍ったところで目が覚めたのだった。
 夢だったか、夢だったわな、と一抹の寂寥を抱きながらも僕は冷静だった。なんだか気分のいい夢だったなあ、と改めて噛みしめたところで、しかしこう思い至った。
 たぶんクラスで一目置かれているあいつと、マドンナ、付き合ってる。
 そう考えたら、最初のマドンナによるスキンシップも、一目置かれているあいつとの共鳴も、すべてがあの完全無敵なカップルのプレイであるように思えてきて、俺はただあのカップルの遊びに利用されただけなんじゃないかと思った。
 夢の中の登場人物は、本人の頭が作り出したものであり、本当には存在しない、ということは理屈としてもちろん分かっているのだけど、その一方で、僕の人生の中に登場人物として登場した以上、完全に存在しないとも言い切れないだろう、ということも思う。形而下の、物体としてあるものだけが「存在する」ということではなくて、その定義でいえば存在することになるけれど僕の人生には登場しなかった人と、実在はしないけれど夢の中に登場した人とでは、どちらが僕の人生の中でより存在していたか、という話になってくる。
 インターネットがつまらなくなった、ということがよくいわれ、それは僕自身もまた大いに感じ入るところなのだけど、どうしてつまらなくなったのかといえば、インターネットの世界はかつて、夢の世界だったからだと思う。夢の中の登場人物は、現実には存在しないので、相手にどう思われようと別によくて、自由気ままに振る舞うことができる。僕は当時のインターネット世界でそこまではっちゃけていたわけではないけれど、かつてのインターネットにはそういう雰囲気があったように思う。みんなで一緒の夢を見ていて、だからそこで繰り広げられることは、現実に戻ってしまえばなんの後腐れもない、そういう空間だった。ハンドルネームだったこともあり、実在の人物とははっきりと乖離していたのだ。
 それが昨今のSNSの台頭により、夢の世界が現実世界にすっかり侵略されてしまい、意味がなくなってしまった。夢が現実になってしまった。夢が現実になるって、幸運な出来事が起きたときに使う表現だけど、夢が現実にすり替わってしまうなんて、なんとつまらないことだろう。夢は夢のままがよかった。

2021年1月25日月曜日

春はまだかよ

 あまりブログを書かない。ブログはゆとりのバロメーター、とは一概には言えなくて、ゆとりがあっても書かないときはある。ただし、ゆとりがないのにブログを書けるという状況はほとんどなくて、今は普通にその状態にある。新しい暮らしは、いまだなかなか落ち着かない。山陰の冬の、寒さや日照時間の短さというのも、当然この低調さの大きな要因だ。山陰の冬とは、そういうものだ。でもそれが大きな要因なのだとしたら、その根はわりと浅いということである。あと2ヶ月、いや期待を込めて1ヶ月半くらいで春が来れば、僕はそれはもう満ち足りた気持ちになり、抱えきれないほどの幸福感を得ることだろうな、と思う。それほど春が恋しい。山陽時代に較べ、その度合は桁が4つくらい違う。
 1週間ほど前より、腹に筋肉痛のようなピリピリとした感覚があり、思い当たる節がなかったので不思議に思っていたら、風呂に入るときその部分に湿疹が出ているのを見つけ、ファルマンに見せたところ、「それ帯状疱疹じゃないの?」といわれ、なに言ってんだ帯状疱疹って更年期の女性がなるやつだろ、と一笑に付していたら、数日して湿疹が脇腹のほうに伸びて、「帯状やん!」となり、慌てて皮膚科に行った。それで還暦くらいの女医に腹を見せたら、「あらー」と軽く感嘆されたのち、「これはもう、自分でなんていう病気か分かってるんじゃないの?」とほぼ半笑いでけしかけられ、「帯状ほうし……」と答えたら喰い気味で「正解!」と褒められるという、意味不明のやりとりをした。それくらい帯状疱疹、あるいはこの症例にまだ名前が付いていなくても、あまりにも帯状に疱疹が出ているので、結果的には帯状疱疹という病名になる、というくらいに帯状疱疹なのだった。そのくらい見事な帯状疱疹になった。女医がいうには、「この時期は年末年始の疲れが出やすいから患者が増える」ということだったが、こちとらただの年末年始じゃない。あまりにもひっちゃかめっちゃかな年末年始だったわけで、基本的には健康な体で、なにより精神が気丈であるため、たとえばファルマンのように、すぐにつらさをフルオープンにするということをしないのだけど、そんなけなげな肉体が、とうとう帯状疱疹という形で音を上げたのだと考えると、切なくて愛しくなる。12月から島根暮しが始まったため、去年はとうとう「パピ労感謝の日」の記事が書けなかったのだけど、書けなかった今シーズンほど、ねぎらわれたい年はなかった。ねぎらって、いたわって、いつくしみたい。もし僕が春の神様だったらば、僕にだけ3週間くらい先行して春を与えてやる。そうあるべきだ。
 これが先週の土曜日の話で、その夜に22日が誕生日であるポルガの誕生日祝いをした。ちなみに4日に誕生日を迎えたピイガの祝いは、4日というのは今年の場合、岡山から荷物を搬出し、われわれ一家は車で島根に移動し、その晩は実家に泊まらせてもらい、明日の午前には引っ越しのトラックが搬入にやってくる、という、そういう日であり、そんな晩に誕生日祝いなどできようはずもなかったが、実家の人がケーキを買っておいてくれたので、なんとなくお祝いをしたような、あまりしていないような、そんな感じで済まされていた。なので今回のケーキ(手作り)のロウソクは、「10」と「7」の二本立て(「10」は「1」と「0」なので正確には三本立て)ということにした。食事のメニューは手巻き寿司とたこ焼き。実家の面々(義父、義母、三女)も招待したので、盛りだくさんのパーティーメニューである。ただし僕は午前中の皮膚科で、抗ウイルス的な、マジな感じの薬を処方されて服んでいたため、酒が飲めなかった。手巻き寿司とたこ焼きなのに! 昼過ぎからせっせと準備したのに! 僕だけが酒を飲めなかったのだ! たこ焼きでビール! 手巻きずしで日本酒! もう悔しいついでに、実家の面々の車の送迎も買って出てやって(「どうしようかって話してたんだ」とお喜びの様子だった)、さらにはもうこんなのマゾヒズムの領域だが、ファルマンや義母や三女のために缶チューハイも買っておいてやった(三人とも、あれば飲むけど自分で用意するほどの熱意はない、というスタンス)。そうして僕ばかりが徳を積み、そして肝臓を回復させた。
 僕のもとには今年、いい春が来るに違いないと、しみじみと思う。そうでなければ理屈に合わない。理屈に合わないことが横行する世の中だけど、それでも僕は希望を捨てない。そんなところも好きだ。ああ、好きだなあ、俺、俺。

2021年1月11日月曜日

山陰洗礼

 引っ越しが済んだ。引っ越しそのものはこの3連休ではなく、正月休みの終わりごろ、引っ越し業者のおそらく仕事始めくらいのタイミングで行なった。だからもうこちらに来て、1週間ほどが経っている。それでようやくこうしてブログを書くことができるようになった。そのくらいバタバタしていた。それはそうだ。
 日本海側は、年末年始に寒波が来て、この週末にも寒波が来ていた。わが家の引っ越しはちょうどその隙間を縫うような、幸運なタイミングで行なわれた。いざとなれば実家に泊まれるというのはあるにせよ、数日前には高速道路が閉鎖になっていたので、そう考えればかなり綱渡りだった。まさかよりにもよって今年、こんな寒波がやってくるとは思わなかった。岡山ではついぞまみえなかった、すなわち子どもたちは生まれてこのかた未体験で、そして強く切望していた雪遊びというものが、こちらに来てたった数日で実現してしまった。子どもたちは実家にあった、ファルマンたちが子どもの頃に使ったというスキーウェアを着込み、雪で思う存分に遊んだのだった。通勤をしなければならない僕や、寒さが嫌いなファルマンは、降り止まぬ雪を見ても「洗礼……!」としか思わなかったけれど、まあ子どもたちの夢がかなったことはよかった。
 それにしたって別世界である。そのことは知っていたし、島根にだって過去実際に1年半住み、冬も2回経験していたわけだが、岡山で暮していた7年間、冬場はこちらに近付かなかった(スタッドレスタイヤを持っていないので近付けなかった)ため、すっかり忘れていた。夏はどちらも同じく暑いのだが、冬はそうだ、山陽と山陰では、こんなにも違うのだ。一面の雪景色の中、氷の上をビクビクしながら運転し、寒波はいつ去るのかとラジオを聴けば、「中国地方」と一括りにされた気象情報では、山陰地方の積雪や低温の注意報ののち、岡山南部の乾燥注意報が告げられ、岡山南部って本当にバカだなと思った。そういえば岡山に来てすぐの頃、まだ島根県の感覚が残っていた頃は、岡山だけ気候があまりにも贔屓されているじゃないかと、不条理を感じていた。そしてそれがいつしか当たり前になっていた。しかし再びこちら側の人間になったことで、岡山南部マジあいつ、と憤りが湧いている。この鬱屈した思いを蓄積させて、僕はだんだん山陰人になっていくのだと思う。
 とはいえ新しい住居そのものは、岡山時代よりも築年数が浅く、そして部屋数も多いため、とても快適である。部屋探しの際、築年数になんてそれほど重きを置いていなかったけど、新しい所ってこんなにも細かい部分の設備とかがよくなっているのか、と感動している。
 もっともとても快適だといいつつ、荷解きはまだ完全には終わっていない。3連休で大いにはかどり、引っ越し社の箱はだいたい壊せたのだけど、まだ荷物が床に無造作に積まれている部分がある。どんな部分かといえば、これが主に僕のハンドメイド関連で、12月にファルマンが荷造り作業をしていた際、「あなたの布が多い」「手芸用品が多い」とさんざん文句をいってきて、大袈裟だろう、憎らしさから目につくのだろう、と受け流していたが、こちらに来て全容を眺めてみたら、なるほどとんでもない。これまでの暮しで歳月をかけて集め、家じゅうのいろいろな場所に散らせていたので把握できていなかったが、一ヶ所に集めたらこんなことになるのか、というくらいにあった。それで急遽ラックを新たに買うことにして、それが配送されるまでに何日間かかかるので、それまでは完璧には整わないのだった。しかしラックさえ届けば、持っている資材が一目瞭然になり、とても創作がしやすい環境が作れそうで、わくわくしている。
 現在の状況はそんな感じで、この日々の中でもちろんもっといろいろ感じたこと、考えたことはあるのだけど、そこまで書く余力はない。余力がないまま、そういったことは綴られることなく、流れていくのだろうと思う。そういったことを、なるべく書き残したいとも思うし、書き残すことに人生の時間を使うことの意義を考えたりもする。
 とりあえず島根生活が無事に始まりました。