2021年5月22日土曜日

百年前日記 17

  まだしなくてもぜんぜんよいはずだったが、前述のように、「俺は夏の間は一切の就活をしない!」と堂々と宣言できるほどの大胆さはなかったため、妻にやんわりと促されるままに応募をし、その結果「じゃあ面接に」ということになってしまったのだった。
 受けたのは印刷の会社だった。もう縫製業はしないということは決めていて、じゃあなにをするかと考えたとき、やはりなんかしらの製造関係がいいと思い、印刷に目をつけた。印刷もまたどこまでも斜陽産業なんじゃないかという気もしたが、印刷といったって紙媒体とは限らず、商品パッケージなんかもあるようで、けっこう手堅いのではないかと思った。なにぶん、どうしてもすぐに再就職しなければならない切羽詰まった状況ではないため、まあ様子見でとりあえず受けてみるか、という感じで面接に向かった。
 印刷会社で働くかもしれないとなって、僕にはひとつの感慨があった。
 かつて岡山に来る前、我々一家は島根県の妻の実家で暮していたのだが、その際に僕はショッピングモール内の服のお直し所にパートで勤めていた。このあと岡山に移住して縫製業に就くことは、ここに入社する前から考えていて、そのための足掛かりだった。その店舗は、二十代男子の僕ひとりを除いては、他の全員が五十歳オーバーの女性というメンバー構成だったので、いろんな意味で修行の期間だったと思う。
 それで無事に岡山への移住が決まったとき、「向こうではなにをするのか」と同僚のおばさんから訊ねられた僕は、ほとんどが元縫製工である彼女たちに対して、「縫製業だ」と正直に答えるのがなんとなく億劫で、「印刷会社に勤める」と噓をついたのだった。
 それがもしかしたら真実になるかもしれないと思った。
 結果としてはならなかった。面接後、自分から断りの電話を入れた。
 この会社の印刷工の勤務体系は、「三日出勤、一日休み」をひたすら繰り返すのだそうで、それ自体はハローワークの募集要項に書いてあったので了解していた。曜日はもちろん、お盆も正月も関係なく、三勤一休。もっともそれはいま思えば、やっぱり実家が遠くにある家族持ちが長く勤められる形態ではなかったろうと思う。求人に応募するときは、なんとなく希望的観測になってしまいがちで、無理な条件も「大丈夫な気がする」と思ってしまいがちだ。この印刷会社に関しては事前に免れたが、僕はこれから何度もその過ちを、文字通り痛感することになる。
 それでこの印刷会社の選考をどうして断ることにしたのかといえば、印刷所は三百六十五日、二十四時間稼働だというのに、シフトが朝番と夜番しかなかったからだ。その点については面接官からなんの説明もなく、そこに言い知れぬ恐怖を感じた。二十四時間という時間を、ふたつのシフトで繋ぐとすれば、ひとつのシフトが十二時間を担当することになる。
 それはつまり、そういうことだろう。
 ぞわ、とした。

2021年5月18日火曜日

百年前日記 16

 かくして家にやってきた工業用ミシンは、工場で見ていた頃よりも巨大だった。占有スペースとしては、アップライトピアノとほぼ同一だろう。しかしミシンの左に伸びるテーブル部分に僕のパソコン一式を置けたので、ミシンとパソコンの合同の作業スペースと思えば、そこまで大袈裟に場所を取っているわけでもない。そんなふうに言い訳をして、工業用ミシンはリビングに置かれた。
 その工業用ミシンで、練習のブラウスのほか、夏用のマスク、子どもたちのセーラーブラウスとワンピース、マスクを入れるための移動ポケットなど、いろいろなものを作った。堂々と無職をすればいいのに、そんな胆力はないので、どうしても「生産」をして、救われようとしてしまうのだった。
 毎日が日曜日になったらプールやサウナに行き放題だなあとわくわくしていたが、考えてみたらプールもサウナも、日曜日にわざわざは行っていなかった。仕事の帰りに行っていた。それらの目的でわざわざ車を出し、さらにプールはまだしもサウナとなれば八百円ほどの代金が掛かってくるわけで、そんなことを思うと無職の身としてはなかなか繰り出す気にならないのだった。先立つものがないと、行動や思考がどんどん消極的になっていくような感じがあり、そのことにじっとりとした哀しみを覚えた。

(サウナは私も好きで、よく行きます。もっともこの頃のサウナと今のサウナは、だいぶ違うものかもしれません。先日は調子に乗って踊りすぎたため、猫が怒っていました)
 
 初めて再就職のための面接をしたのは、七月の終わりだった。

2021年5月17日月曜日

百年前日記 15

 それでパターンの勉強は結局どうなったかといえば、それなりにやった。襟や袖や前開きのさまざまな形状のものを組み合わせ、好みのブラウスを作るという本で、何着か実際に作ってみた。製作を通して、なるほどなあと思う部分もあったが、知りたいことの本質的な勉強にはなっていないような気もした。
 そもそも僕は服を作りたいのか? ということも思った。絵に描いたようなジタバタである。
 社会からほっぽり出されて、確たるもののなさをしみじみと感じた。しかし確たるものなんて、いったいどれほどの人間が持っているだろう。暮らしが安定的に続く限りは、それは感じなくてもいい懸案である。
 いまどきのレトリックでいうならば、武器というやつだ。我々は、弱肉強食の世界で、生き残りのために、武器を持たなければならないのだ。これのどこが文明社会なのか。
 百年後や二百年後の世界では、こんな仕組みから人類は解放されているのだろうか。

(少なくとも百年後は解放されていません。おそらく二百年後も無理でしょう。原資は有限なので、どうしたって奪い合いは起ります。そこからは永遠に逃れられないのだと思います)

 八年前の無職の夏は、小説を書いた。もうどんな小説だったか、あまりよく覚えていない。いちおう書き上げて、どこかへ応募した記憶はある。箸にも棒にも引っ掛からなかった。今回は小説を書く気にはならなかった。それでいていまになってこうして長い話をし始めている。だとすればこの行為もまた、ジタバタに他ならないのだと思う。

(しかしそのおかげで私はこうしてこの文章を読めています)

 七月はそれでも、はじまったばかりの無職生活を前向きに過せた。
 七月に入ってすぐは長引いた梅雨によって雨が続き、それが途絶えたところでようやく工業用ミシンが我が家に届けられた。工場長とミシン屋が、軽トラックで運んできてくれた。
「就活はしとるんか」
 僕が勤めはじめたときから工場長で、工場長としか呼んだことのない元工場長が、荷台からミシンを降ろしながら訊ねてきた。
「いちおう書類を送ったりはしてますよ」
 と僕は答えた。嘘ではなかった。よほどのことがない限り、すぐに再就職するつもりはさらさらなかったが、それでも急き立てられる部分はあり、ウェブ上での応募など、完全にしていないわけではなかった。
「そうか。偉いな。決まったら連絡くれ」
 五十代後半の元工場長は、かなり技術のある人だったこともあり、他の会社からの誘いもあるといつか話していたが、それもまた状況は変わっているかもしれないと思った。もっとも子どもは既に社会人だし、何十年も勤めた上での雇用保険は僕の条件よりもはるかに手厚いだろうから、余裕はあるはずだった。
 もうこの人と会うことはきっとないんだろうな、と思いながら見送った。

2021年5月15日土曜日

百年前日記 14

 僕はその足で倉敷市のハローワークに立ち寄った。そこまで急いで申請に行く必要はない、どうせ長期戦になるんだ、と言っていた人も会社にはいたが、やはりなるべく早く雇用保険をもらいたいと思い、退職日翌日の申請となった。会社にハローワークの職員が来ての説明で一応の予備知識はあったが、やはり自己都合退職と会社都合退職では、ハローワークの待遇がまるで違った。そうか、失いたくないのに職を失ってしまった者こそが、雇用安定所たるハローワークにとっての正規の客なのだな、と理解した。
「コロナの影響ですか」
 書類を提出すると窓口の人にこう訊ねられたので、「ちがいます」と僕は答えた。
 タイミング的にはあまりにも新型コロナウイルスの影響を感じさせるが、工場の閉鎖が告げられた一月末には、新型コロナウイルスがここまでのことになるとは誰も予想していなかった。本社が決定を下した工場の閉鎖に、新型コロナウイルスという要素は考慮されていないはずだった。
 申請が終わると、本来は受給に関する説明会のようなものがあるはずだったが、これもまた新型コロナウイルスの影響により取り止めだという。そうしてどこまでもスムーズに、ある意味で恵まれた境遇で、七日後からだという雇用保険の受給が決まった。一八〇日というその期間は、波風立てずにひたすら受給すれば、ほぼ年内いっぱいもらい続けられる計算だった。もっともさすがにそれはできないし、するつもりもなかった。一日の受給金額はせいぜい六千円足らずであり、それで家族を養って暮せるはずもなかった。
 そもそも間が持たない、とも思った。それでも七月と八月くらいは就職せずに暮せたらいいな、ということを漠然と思っていて、それなりにしたいこともたくさんあったが、大人の男のしたいことなんて、そこまで長い期間を埋められるほどではない。真夏の二ヶ月間が関の山だろう、と思っていた。ちょうど雇用保険には、「受給期間の三分の二以上を残して再就職を決定した場合には、残りの受給額の七〇%を一括支給する」という制度があり、だとすれば八月いっぱいまで六〇日あまり無職で過ごし、九月から再就職をすれば、ずいぶんな金額をせしめることができるぞ、と算段した。
 したいことの筆頭は裁縫で、仕事をしながらだと気力が湧かなくてなかなか取り組めない、本に書かれた作り方通りに作るのではない、パターンへの理解を深める勉強をしようと思った。それでハローワークの帰りに図書館に寄って、そういう本を借りて帰った。
 僕の無職の夏はこうして始まったのだった。

2021年5月12日水曜日

百年前日記 13

 商品という血流がなくなったあと、機械や設備という内部構造も瓦解して、工場という巨大な生き物は、もはや外殻だけの存在となった。その一連の作業を通して、工員とは本当にバクテリアのような存在なのだな、としみじみと思った。本当はずっと寄生していたほうがいいのだけど、なにかの弾みで宿主のバランスが崩れると、共倒れになる。それまで血液内の栄養分とかを掠め取って暮していたのが、肉体を自由に食べることができるようになるので一時的にフィーバーが起るが、それは食べてしまえば回復することは一切ない、破滅するだけの謝肉祭である。
 かくして謝肉祭は終わった。
 最終日は近所の仕出し屋から、ちょっと豪華なお弁当を取り寄せ、がらんどうになった作業場の床に生地を敷いて、工員で車座になって食べた。しかし一応そういう形は作られたものの、特に式次第があるわけでもなく、最後にセレモニーをするわけでもなく、なんとも締まらない終わりだった。新型コロナウイルスのことがなかったら、打ち上げとして酒の席は設けられただろうか。それはさすがにあっただろう、という気も、普通になかったんじゃないかな、という気もした。
 結局のところ、僕がもともと転職を考えていたことが示すように、ここは決していい会社組織ではなかったのだろうと思う。あまりやる気のある人はいなく、それはぬるま湯のようで居心地そのものは悪くないのだけど、やっぱり会社としては問題だったろうと思う。それでいて、本社になにかを言われたら急にその気になって厳しいことを課してきたりするので、落ち着かなかった。そして結果的にポシャった。なんてったってこれほどの決定打はない。立ち行かなくなって社員はみな次の仕事を探さねばならなくなった。会社としてこれほどの悪行はない。
 もっとも会社は一応の尽力はしたらしい。玉野や児島は縫製業の盛んなエリアなので、横のつながりで工員たちの働き口を世話してくれようとした様子はあった。
 とは言え世界はあまりにも新型コロナウイルスに侵食されているのだった。工場そのものを買い取ってくれる会社探しと同じで、こちらも春先くらいまでは「なんとかなるだろう」という雰囲気で事が語られていた。受け入れ枠があったのだ。それが工場の閉鎖間際になると、そちらの工場も余裕がなくなったのだろう、枠が狭まり、条件も渋くなった。それでもおばさんの中には、そこに入社した人もいたらしかった。しかし男性社員にとっては現実的な選択にはなり得なかった。やはり縫製業はつらいな、ということを改めて思った。
 そうして六月が終わり、僕は無職になった。
 もっとも七月一日は、離職票を受け取りに工場に赴いた。工場の敷地内はまだ回収されないゴミで溢れていた。午前中に完成したという出来立ての離職票を、元社員たちは元社長から受け取った。本社から派遣された埼玉県民の元社長は、後処理のためもうしばらくはこちらで単身赴任を続けるらしい。この人はそのあと会社でどういう扱われ方をするのだろう、ということを少しだけ思った。

2021年5月10日月曜日

百年前日記 12

 さて製造が終わってしまった。しかしまだ五月の中旬であった。工場が本当に閉鎖するのは六月末であり、それまでにはまだ四〇日以上もの期間があった。その間はいったいどうやって過すのか、といえば、これが特になにもないのだった。そもそも仕事がないのかなんなのか、本社もこれ以上、閉鎖ギリギリまで働けと命じてくる様子はなく、後片付けはあるにせよ、数十人の工員で何十日も掛かるはずもない。その結果、工員の我々は完全に食客のような立場で残りの一ヶ月超を過すことなった。
 こんなうまい話がこの世にあるのか、と思った。
 この頃には退職に関する条件も定まり、三年前に会社ごと買われたばかりなので退職金こそ発生しなかったが、その代わりとして一ヶ月分の給与が余分に支払われることとなった。また一斉退職となるためハローワークの職員が工場にやってきて説明会を開いたのだが、それによると会社都合の退職は、自己都合の退職に較べ、破格の扱いとなり、普通は九〇日、それも給付は三ヶ月後からなので実質受け取れる人間は少ない雇用保険も、その倍の日数分が即日給付となるという。これまでの給与に比例するという一日の給付金額をざっと算出し、それを日数で掛けて出てきた数字は殊のほか大きく、色めき立った。さらにいえばこの時期、政府による国民ひとりに対して十万円の給付やら、個人事業主である妻の持続化給付金などで、小市民のわが家はプチバブル状態にあった。
 そのため、いよいよ無職は眼前に迫ってきていたというのに、悲壮感はまるでなかった。気にしても仕方なかった。少なくとも七月八月は次の仕事のことなど考えずのんびり暮らそうという算段があったので、新型コロナウイルスで先行きが見えないこのご時世、秋以降の再就職のことを憂えてつらい気持ちになるなんてあまりに無駄なことだった。
 かくして、どこまでも平穏な日々を過した。世間の狂騒に対して、この工場だけは本当に平穏な世界だった。
 ゆるゆると片付け作業がはじまると、糸や生地、テープや金具などの資材が次々と、『ご自由にお持ちください』となって工員に振る舞われた。おばさんたちに混ざって、もちろん僕もたんまりともらって帰った。縫製工ならばいちどは夢見たことがある光景だろう。縫製に限ったことではないが、勤めている人間というのはそれなりの確率で、勤務先の扱っている物品が好きで働いているので、作業をしながら、これいいなあ、なんてことを思ったりする。しかしながらそれで持って帰ったらそれは内引きであり犯罪である。だから我慢する。その我慢をしなくていいのである。欲しいと思ったものをそのままもらって帰れる世界。ユートピアだ。
 その極めつけはミシンだった。工場で使っていた工業用ミシン。これはさすがに『ご自由に』ではないが、欲しい人には四万円で売ってくれるという話が舞い込み、すぐに申し込んだ。というのも僕がこれまで家で使っていたミシンは、東京で書店員をしていた頃に手芸に興味を抱き、池袋のビックカメラで買った三万円ほどのもので、機能的にはあまりにもちゃちなものであり、これまでもきちんと縫いたいものは工場のミシンを使っていたのだが、今後はそれができなくなるので、どうしてもいいミシンが欲しいと思っていたのである。それは妻にも伝えてあって、そのため再就職が決まったら職業用ミシンを買うという約束を取り付けていた。ちなみに職業用ミシンの新品は、八万から十万円ほどする。工業用ミシンはもちろんそれよりももっと高い。そもそも工業用ミシンは基本的に一般流通するものではない。それが今なら四万円で手に入るのだ。いつになるのか分からない再就職を待ってる場合じゃなかった。テーブルと一体型のそれは、七月以降に出入りのミシン業者が家まで運送してくれるということになり、この夏への期待がさらに高まった。
 六月も中旬になると片付けは加速し、机や棚が解体され、取っ払われ、ごちゃごちゃしていた工場の中はどんどん見通しがよくなって、ここはこんなに広い場所だったのかと驚いた。働いていた六年ほどで、いろいろな思い出があったような気も、ぜんぜんそうでもないような気もして、気持ちはいつまでも定まらなかった。

2021年5月4日火曜日

百年前日記 11

 さて縫製工場である。生き残るために必死にならなければならない、とことあるごとに言ってきて、あえなく頓死することになった縫製工場。しかし親会社からその宣告をされた時点では、まだ従業員たちには余裕があった。六月末までにはだいぶ間があって、まだピンと来ないというのもあったし、なによりそれまでにはまた別のどこかの会社がこの工場を買い取ってくれるのではないかという見通しがあった。
 そしておそらく、平時であればそれは叶ったのだ。
 しかし新型コロナの影響は苛烈で、人が出歩かなくなった世界において、アパレル業界に明るい兆しは一切なかった。ましてやこの工場が得意としていたのは高級紳士コートというジャンルであり、僕は実質この工場が右肩下がりになってからのことしか知らないのだが、普通に考えて、景気がいいときにしか繁盛しない分野であると思う。三年ほど前、親会社がこの工場を買ったときには、アベノミクスだなんだと叫ばれ、景気というのはもしかするとこれから本当に良くなってくるのかもしれないという雰囲気がたしかにあった。

(アベノミクス……?)

 しかし蓋を開けてみればコート工場の採算は、驚くほどにぜんぜん取れなかったらしい。それで閉鎖を決めたら、新型コロナがやってきて、このタイミングでの決断は慧眼だったような、しかしそんなことをいったらそもそもの買収が大間違いだったような、なんとも言えない話であるとしみじみと思う。
 緊急事態宣言下のゴールデンウィークが終わった五月上旬、この冬に向けてどうしても作らねばならなかった契約分のコートが仕上がり、四月まではそれでも何社か来ていた、この工場を買うかもしれない会社の社長という存在もすっかり姿を見せなくなり、工場内にはあきらめムードが生まれた。
 それはとても清々しいムードだった。これまで裁断場から仕上げ場まで、常にそれぞれの進捗状況の商品が血液のように流れていたが、最後のアイテムが過ぎていくと、前半の作業場から順々に、その清々しさはどんどん広がっていって、ついにそれが出荷されると、工場はもうその生命活動を完全に停止し、ただの場所となり、摂取もしなければ排泄もしない、とても清廉なものになった。経済活動というのは基本的に流れなので、製造業に限ったことではないけれど、しかし工場はそれが可視化されているため、余計に感じやすいと思う。工員は絶え間なく流れる商品を扱いながら、それで賃金を得ながら、この流れがなくなったらどれほどすっきりするだろうと夢見ずにはいられない。もちろんその夢はなるべくならば叶わないほうがいい。叶わない限り、自分は暮していけるのだから。しかし叶うときは叶う。止まるときは止まるのである。だとすればそれに立ち会った工員は、その喜びを存分に享受するべきだろうと思う。
 生きることは動くことで、もちろんそれは無条件に素晴らしいことだが、さまざまな辛苦を伴う。生老病死。老いることも病むことも死ぬことも苦しい。それもこれも生まれたがゆえに味わうはめになった。生きているから苦しい。そう思って翻るに、死の清廉さはどうだろう。しかし死ねばたぶんそれっきりなので、実際は清廉さもなにもない。ただの完全な無である。死を清廉なものと捉えるのは、猥雑な生の中にある間だけである。とはいえ傍で死にゆく者を眺めたところで、その気持ちを体感として味わうことはできない。そう考えれば、自分自身もその一部であった工場が閉鎖することになり、工場の生命活動がどんどん停止していくさまを眺めることは、現世でできる最大限の、死のシミュレーションであり、極めて貴重な体験なのではないかと思った。

2021年5月1日土曜日

百年前日記 10

 孤独になってしまった以上、いまさら後戻りはできない。もはや孤高を気取るしかない。そして孤高の人間は、そうでない人間のことを糾弾する。友達がたくさんいる人間には実社会でたくさんのメリットがあるが、友達がいない人間は、友達がたくさんいる人間を思いのままに糾弾できるということを除けばメリットはひとつもない。だから糾弾しないわけにはいかないのである。
 緊急事態宣言によってカラオケや飲み会、ライブにスポーツ観戦など、ありとあらゆることが自粛の対象となり、友達がたくさんいる人たちは苦しんだ。友達がいない人間にとっては一体なにが苦痛なのかさっぱり解らなかったが、彼らにとってそれは、どこまでもつらく、耐え忍ぶしかない日々であったらしい。その未曽有の危機に対して彼らはどのような手に打って出たかといえば、「今は我慢しようね」と盛んに言い合うことで連帯感を出していた。「繋がらない」をモットーにして繋がるこの現象を、僕は「繋がらなろうね症候群」と名付けた。どうしても人と繋がっていたい彼らにとっては、繋がらないことさえもが繋がりの象徴になるのだ。なんという執念だろうか。これまで僕は彼らのことを、精神性のない即物的な存在だと決めつけていたが、実はすごく繊細な生き物なのかもしれないと思い直した。妖精のような彼らにとっては、火を着けられずに折れてしまったマッチ棒さえもが、特上のおもちゃになるのである。
 だとすれば、やっぱり社会は、彼らだけのものだ。僕のような存在は、彼らの作り出す社会の片隅に、居心地悪く佇むよりほかない。彼らが愉しむ折れたマッチ棒に、僕は魅力を感じることがどうしてもできない。ビジネスも、キャンプも、車も、ギャンブルも、僕は興味がない。そしてただでさえ他人と共通の嗜好が見つけられないのに加えて、僕は僕の好きなものを好きな人のことが好きではないのだった。僕と僕の好きなものは、それだけの完結した世界であるべきなのに、第三者が介入して、僕の好きなものに関する、僕の知らないことなんかをひけらかされた日には、僕の好きなものは僕の好きなものではなくなってしまう。だからやっぱり僕は社会に入り込めない。社会において、社会に入り込んでいると受けられるさまざまな恩恵を享受できない。僕はこの恩恵のことを、友達クーポンと名付けた。それは物質として財布の中などに入っているわけではないが、世の中には友達クーポンというものが明確に存在する。社会はこの友達クーポンの循環で回っているといってもいい。友達クーポンは循環しているが、それはあくまで環の中をめぐるだけなので、環の外にいる人間のもとにはいつまでも舞い降りない。それは仕方ない。自分自身が、自分印の友達クーポンを発行しないのだから、相手が一方的に友達クーポンをくれるはずがないのである。この話に救いがあるとすれば、環の中にいる人間は、そのことに対して無自覚だということだ。内側にいる人間は、自分たちを客観視することができない。そのため、彼らは自分たちのやっていることの非道さに気づけない。ここまで見事な富の占有は、高等生物たる人間の所業とは思えない。福祉の概念のない下等生物のやることだと思う。
 もっとも人間が高等生物であるという前提が間違っている気もする。なにぶん文明を持っている生きものが人間だけなものだから、人間は高等生物であると無条件に認めてしまいがちだが、実はそんなことないのかもしれない。
 これまでの人生でしばしば、世界は弱肉強食だと伝えられ続けてきた。そのたびに、サバンナじゃあるまいし、なにを言っているのかと思ってきた。東京にいた頃に勤めていた書店でも、このたび働いていた縫製工場でも、「生き残るために必死にならなければならない」ということをお題目のように唱えられ続けてきた。そしてそれらの言葉は僕の胸に一切刺さることがなかったのだった。結局、書店はこの新型コロナでどんな状況になっているかと思い久しぶりにウェブで検索したらいつの間にかツタヤに吸収されて事実上消失していて、縫製工場はあえなく閉鎖である。ふたつともそもそもが斜陽産業であったとは言え、むごいと言えばあまりにもむごい。ここに感情はない。サバンナの掟に感情などあるはずがない。しかしながら棲み処を追われた動物と異なり、人間には感情がある。あってしまう。ここに人間の悲劇がある。人間の作り出した社会の仕組みは、高等なようで別にちっとも高等じゃないが、この部分の悲劇に思いを馳せることができるのは人間だけなので、だとすればここにこそ人間の高等生物的な部分は存在しうる。だから僕はいまこんな文章を書いているのかもしれない。

(少なくとも文章を書けるのは人間だけなので、そこだけを根拠に人間は高等生物であると宣言したっていいと思います)