2024年2月17日土曜日

百年前日記 25

 そのあと僕はふたつの縫製会社の面接を受けた。
 ひとつはこれまでとはだいぶ毛色の違う、すなわちくたびれていない所で、縫製だけをやっているわけではないが、オリジナルのブランドを持ち、10名ほどの縫製工を擁する縫製工場(こうば)は、前年あたりに新設されたばかりという、なんだかイケイケな会社だった。面接を受けに行くと、少しギャルっぽさのある若い女性に案内され、面接官として現れた男は湘南乃風のようだった。いま冷静に考えたら、その職場はお前には合わないだろ、と断言できるのだが、当時の、くたびれた感じの縫製工場に6年いて、そのあと同じような縫製工場の面接を受けたらそこにはかつての同僚もいてウンザリ、なんてことがあった僕には、コンクリート打ちっ放しの、美容室のような新しく小ぎれいな場所で、10人くらいの縫製工で日々さまざまなものを縫うという、これまでとはだいぶ異なる世界に、魅力を感じてしまったのだった。採用されればいいなあ、と切に思った。
 その結果が出る前に、もうひとつ別の会社にも面接を受けに行った。こちらはくたびれているほうの縫製工場で、ここに入社したら、前までとほぼ変わらないような感覚で働けそうだなあ、という感想を持った。それはいいことのようにも、悪いことのようにも思えた。面接官はわりと若い感じの気さくな男性ふたりで、楽に話せた。縫製工場に勤めていた経験から、向こうが欲しい答えをズバズバ出せている感触があり、手ごたえがあった。採用されることはまず間違いないが、ふたつの会社を並行して受けているため、結果の通知の順番が問題だな、と思った。
 そのときの気持ちとしては、先に面接を受けた小ぎれいなほうで働ければどんなにいいだろう、という思いだったが、こちらは結果の見通しがつかなかった。後者は採用の連絡が来るのは目に見えていたが、それが先に来てしまった場合、どう返事をすればいいか悩ましかった。いちばん参るのは、前者に心を決めてしまい、後者の採用通知を断ったあと、前者から不採用の通知が来る場合だ。別に僕は、後者の会社で絶対に働きたくないわけでは決してないのだ。ただ前者の会社に強い魅力を感じてしまっているから、そこに葛藤が生まれるのだった。
 さてどうしたものかなあ、と困っていたら、後者の会社から郵送で、不採用通知と履歴書が送られてきた。これにはとてもびっくりした。狐につままれた気分とはこのことか、と思った。妻からは、「面接がすごく話しやすくて盛り上がったって言ってたから、怪しいなって思ってたよ」と言われた。案外そういうパターンもあるらしい。人間怖い。
 しかしこの数日後、前者の会社から採用の通知が来たので、心の底から安堵した。フラれた憤りもあり、あー、あそこから採用の連絡が来なくてよかった、と思った。
 かくして僕は10月より、ふたたび縫製工場に勤め始めることになった。6月以来と考えれば、なんのことはない、僕の縫製工としてのブランクは、まだ3ヶ月でしかなかった。化学工場に勤めた半月間が、早くも幻のように思えた。途中でいちど奇異な夢を見たが、縫製の仕事をしに移住して来た岡山で、会社こそ変わったが僕の縫製工としての日々は続いてゆくのだな、と思った。
 しかしこの会社での日々は、またすぐに終わることとなる。そしてそれは、僕の岡山での縫製工としての日々の、完全なる終了を意味するのだった。