2021年2月6日土曜日

暮し遠回り

 新しい住まいが本当に快適で、移住をするとなると土地柄とか利便性とか、生活にはいろいろ考慮しなければならない要素があるけれど、とはいえやっぱりいちばん大きいのは住まいだろう。その点、ここは本当にいい。日々そのことを噛みしめながら暮している。広いリビング、カウンターキッチン、天井の高さ、いいデザインの浴槽、どれもがよい。ファルマンの実家との距離は2キロほどで、車だと7、8分だし、自転車はもちろんのこと、徒歩でも往来可能だ。これも実にいい距離感だと思う。子どもたちがもう少し大きくなれば、そのうち勝手に向こうへ遊びに行くこともできるようになるだろう。とてもいいと思う。ぜひやればいいと思う。
 今はまだ子どもたちを実家にやるとなると、車で送迎してやらなければならない。今日はファルマンの仕事が立て込むというので義母に依頼し、日中あちらに託させてもらった。今回の移住の目的がそもそもそういうことだったわけだけど、実際にやってみて、実家の近くでの子育てというのはこんなに助かるものかと感動した。休日に子どもから解放される時間というものが、岡山暮しの間は本当に皆無だった。それはいま思えばずいぶんと過酷な状況ではなかったか。道理でみな、実家の近くに住むわけだ。やけに遠回りをして、われわれ夫婦はその真理に到達した。
 遠回りをするといえば、スマホ全盛の世の中においてガラケーに固執し続け、ガラケーとタブレットの2台持ちを経由し、タブレットに電話機能を集約させ(現在ここ)、そしてようやく僕は、「次はスマホだな、小さくて持ち運びしやすいだろうから」ということを決意しているのだが、これもまたあまりにもひどい遠回りだな、と我ながら思う。人生が自分にだけ800年くらい用意されているとでも思っているのだろうか。
 人生が800年、ということで思い出したが、2月6日はcozy rippleの開設日であり、僕の母の誕生日である。cozy rippleは17周年、母は67歳(たぶん)である。母の誕生日ということで、母の年齢を思い出そうとしたとき、はじめに「76歳だっけ?」と思ったのち、「いやさすがにまだそんなになってないか」と気づいて、「67歳か」と、たしか自分と30歳違い、という覚え方から導き出したのだけど、最初の76歳からすれば67歳はだいぶ若い印象になるが、そうはいってもあと3年もすれば母も70代になるのだなあと思い、そしてこの「あと〇年すればもう〇代」という言い方は、母が僕の誕生日に送ってくるメッセージそのものだなあと思い至り、結局のところわれわれ親子は、互いの年齢に対して「いい歳だなー」ということをひたすらに思い、そしてそう思う以上の感情は基本的に一切ないのだな、と思った。とりあえずおめでとうのメッセージだけ送っておいた。
 昼は子どもがいなかったので、夫婦で昨日の晩ごはんの残りで昼ごはんにした。そのときの会話で、ファルマンは島根に来たからには今後やはり免許が必要になってくるだろうということを痛切に感じ、生活がきちんと落ち着いたら運転免許取得に本腰を入れようかと漠然と考えているのだが、それに対して実家の面々、すなわち島根生活(それも子育て)において運転免許は必ずあったほうがいいということを身をもって実感している人々が、「やめておけ」「向いてないからよせ」ということを口を揃えていい、その筆頭はやはり娘の性格をいちばんよく知り、そしていちばんよく安全を願う義母なのだが、先日ファルマンが銀行などに用事があり、義母に車を出してくれるよう頼んで連れて行ってもらった時の車中でもその話になり、「絶対に事故を起すからやめたほうがいい」とやはり唱える義母の運転が、それはもう感情的でひっちゃかめっちゃかなもので、ファルマンは助手席でハラハラし通しだったそうで、僕はこの話を聞いて、こちらに引っ越してくるにあたり、夫婦でこれまで使っていたダブルベッドを処分することにし、こちらでは布団で寝るようになっていて、板の間に布団で果たしてどうだろうと不安だったのだが、厚みのあるいいマットレスを買ったらぜんぜん問題なく快適に寝られており、それはよかったのだけど、この変化において唯一存在する問題として、これまでベッド下の引き出しに詰め込んでいたエロ小説をどうするかというものがあり、結果的にどうしたかというと、ミシンテーブルの下に文庫本用の本棚を置いて、そこに並べて、棚はもちろん椅子に対して正面に向いているわけではなく、テーブルの左端に、右を向いて置かれているため、わざわざ回り込まなくてはどんなものが並んでいるのか分からないので、これでいいや、これはよかった、エロ小説が並んでいる様は本当に充足感があるなあ、ベッドの下に眠らせておくよりもよほどよくなったなあと満足していたら、多感なファルマンはそれでも許せなかったようで、ある日ずらりと並んだ背タイトルが、その前に本を置くことで目隠しされていて、その本がどういう本だったかといえば、『精子の〇〇』とか、『性の技法』とか、『エロジョーク集』といった、直截的なエロ小説ではないけれど、かといって大手を振って晒すのもいかがなものか、みたいな本たちで、ちょいエロ学術本でエロ小説を隠すって、「血で血を洗う」ではないけれど、なんか極限状態だなという感じがあり、でもちょうどいい喩えが見つからないなあと思っていたのだけど、ファルマンに免許を取らせるのが恐ろしいから義母の恐ろしい運転で用を済まさせてもらうというのが、まさに僕のこのエロ本棚の状態と一緒なんじゃないかと思った。妻と義母の関係性を、エロ小説とエロ学術本に喩えて、いったい僕になんのメリットがあるのか。
 夕方に子どもたちを回収し、晩ごはんは餃子を作る。こちらに来て初めての餃子。義母が知り合いからもらったという白菜が、ひと玉まるごとわが家にやってきたので、それで作った。親世代というのはお歳暮やお中元に代表されるように、物品のやりとりを実によくすることだな、と思う。そのおこぼれがやってくることも、実家の近くで暮すメリットに他ならない。餃子は相変わらずおいしかった。