2021年4月16日金曜日

百年前日記 5

  仕事は快適だった。どうせ先のない、あとは去年の時点で受注してしまった注文分を生産するだけ、という状態になった工場には緩んだ空気が流れ、居心地がよかった。
 あまりにもよすぎたのだと、このことはあとになって痛感することとなる。
 この時期、世の中で新型コロナウイルス対策としてマスクが店頭から消えるという出来事が起った。
 この騒ぎが起る前は五〇枚入りで五〇〇円を切っていた不織布のマスクが、三〇〇〇円だの四〇〇〇円だのという高値で売られるようになった。希少価値が高まれば値段が高くなるのも当然、というのが売り手側の主張で、われわれ消費者は、お前らこの機会にぼろ儲けしようとしてるんだろうと思いつつも、必要に迫られれば買うほかなかった。戦後の闇市のエピソードを聞いて抱くのと同じような気持ちを、現実で抱くはめになり、ああいまはそれくらいに非常時なのだ、と改めて感じた。

(ここでいう戦後とは、第二次世界大戦のことですね。原子爆弾が兵器として使用された、人類史上唯一の戦争)

 不織布マスクは紙でできた使い捨てのマスクという認識だったのが、実は名前でもちゃんといっているように、特殊な布でできていて、洗濯もできないことはない、という蒙が啓かれたのもこの時期だった。しかし実際にやってみたら、パラソルハンガーに洗濯バサミでぶら提げられた不織布マスクの情景は、やけに自分たちが侘しいことをしているような気持ちになり、定着しなかった。
 そのような状況に、妻がある日、布マスク作りに着手した。妻は編み物はするが縫製方面はからっきしの人間である。針と糸はもちろんのこと、ミシンだって普段は触ろうともしない。それでも娘たちの着けるマスクがなくなることを憂えて母の大いなる愛が発動したのである。
 幸いなことに、資材は家に揃っていた。表面となる綿の生地はもちろんのこと、裏面のガーゼは娘たちが赤ん坊の頃にスタイなどを作るために買ったのが残っていたし、ゴムもまた娘たちの体育帽子の紐を付け替えるとき用の細いものがあった。常日頃から、手芸に関するストック物品が多すぎると大いに文句をいわれていたが、このような非常時にあって、ストックというのは大事なのだということを悟った。
 僕が労働を終えて家に帰ったときには、妻の布マスク作りは佳境に入っていて、それは惨憺たるありさまだった。
「あとはマスクの端にゴムを通すだけだからお願い」
 と妻はいったが、この作品のクレジットに僕の名前が載るのは勘弁してほしいと思った。
 それで仕方なく、ほどくべき部分をほどき、アイロンの段階からやり直すことにした。ものによってはそれでもどうともならず、裁断の段階からやり直した。長方形に切ればいいプリーツ型マスクの裁断が、どうしてこうもズレるのか、裁ちばさみではなく石ででも切ったのか、と思った。
 かくして初めての布マスクはなんとか完成したのだけど、やはりまるで満足のいく出来ではなかった。俺が最初からやっていればこんなことにはならなかったと僕は深く反省し、自分の手でちゃんとしたものを作ることにした。妻の作った布マスクは、実用性はまるでなかったけれど、僕をその気にさせるという着火剤の役目を果たした。