2021年3月21日日曜日

ROUND1の友達たち

 相変わらずぜんぜん友達がいないのに、「友達がいない」という話をせずにいた。どうしてだろうと考えて、たぶんもう僕にとって、僕のこの状態は、「友達がいない」じゃないからだと思った。なんのトピックスもない、「普通」なのだ。脊椎動物であるとか、哺乳類であるとか、そういうレベルで、僕には「友達がいない」。あまりにもいない。
 岡山でも友達はいなかったが、それでも6年半勤めた縫製工場で、5人くらいとはLINEを交換した。結果的に実現しなかったが、「いつかROUND1に行こうよ」という話もしていた。最終的に人類初の800年を生きる僕が、6年半かけて築き上げた、鍾乳石のように希少で尊いそれは、島根への移住でぽっきりと折れた。もっともあくまで彼らとは職場での付き合いだったわけで、移住は関係なく、会社がなくなった時点で関係は切れていた、というのが実際のところだ。5人のうち、僕が島根県に移住したことを知っているのは、年末にたまたま連絡をくれたひとりだけだ。だから「友達がいない」ことと島根移住に関連はない。そのせいにしているだけだ。
 しかしその一方で、上の文の中にはひとつ、「友達がいない」トークにおけるとても大事なファクターが含まれている。それは「いつかROUND1に行こうよ」の部分で、妹尾にあったあの場所に、僕は7年で結局いちども足を踏み入れることはなかったのだけど、それでもいざというとき、その土地にROUND1があるかどうかというのは、友達作りにおいて重大な要素だと思う。鶏が先か卵が先か、みたいな話になるけれど、友達だからROUND1に一緒に行くし、ROUND1に一緒に行ったら間違いなく友達だとも思う。37年間で1回も行ったことがないけれど、ROUND1というのはそういう場所だろうと思う。そして島根県には、ROUND1がない。出雲にないのはもちろんのこと、松江にもない。さらには米子にもない。山陰に存在しないのだ。もっともたとえ米子にあったところで、かつて茶屋町に暮しておきながら妹尾のROUND1に行くことのなかった僕が行くとも思えないが、ROUND1というのは実際に行くとか行かないとかいうものではなく、心のよすがとして救われるという性質のものなので、それがないこの土地では、僕の心はいよいよ途方に暮れる。ROUND1のない世界で、いったいどうやって友達ができるというのか。
 岡山でも僕には友達ができなかったけど、それは僕が妹尾のROUND1に行かなかったからで、たぶん行ったらそこには、閉じ込められていた僕の友達たちがわんさかいて、いつまでも終わらないバブルサッカーをし続けていたに違いない。僕はついぞ彼らを救うことはなかった。そのことに思いを馳せると、たぶんいまでも僕が迎えに来る日を夢見てバブルサッカーを続けている彼らには申し訳なさを覚える。島根にはそもそもそんな状態がどこにもないわけで、友達ができる目が完全にない代わりに、すっきりとした安心感もある。そうだ、このすっきりとした安心感は、そこに由来するのか。ここで暮らす以上、僕はもうROUND1の友達たちのことで思いわずらわなくていいんだ。それならいい。それならばいいよ。