縫製工場と化学工場は、同じ工場という名称を用いながら、実はぜんぜん別のものだった。それはそうだ。縫製工場で働いていたから化学工場でも働けるだろうなどと、どうして思ってしまったのか。
幸いにもすぐに支給が再開された雇用保険だったが、残りのうちの70%を先行して受け取ったこともあり、残りの日数はそう多くない。今回は当然ながら前回のように悠長には構えられないし、なにより無職の日々はもうたくさんだった。
僕はすぐに次の就職活動を始め、そしてそれは業種として、縫製会社に絞って行なったのだった。6年間の経験を踏まえ、縫製会社を除外して再就職活動を行なったが、その結果がさんざんなものになり、やっぱり自分は縫製しかできないんじゃないか、そもそもほぼ身寄りのない岡山に移住したのは縫製業が盛んだからであって、だとすれば岡山に住みながら縫製業以外のことをするのって、あまりにも意味不明なんじゃないか、などということをいまさらながら痛感し、やはり縫製業に回帰する決意をしたのだった。
そう決めてからは、気持ちがだいぶ楽になった。履歴書にしろ面接にしろ、縫製業ならば転職活動として無理がなかった。前に勤めていた縫製工場が閉鎖したので再就職先を探しております。それで済むからだ。ただしなまじっか業界のことを知っているがゆえに、懸念点もあった。国内での縫製業が斜陽産業であり、給与は基本的に低いなどということは、僕も妻もすでに重々分かっていたが、縫製工を「ミシンオペレーター」と称し、ミシンの拡張した機能かのように、人格も与えずに無茶な勤務体系で働かせるような、そういう会社は嫌だと思った。前の会社はそこまで悪辣ではなかったが、嫌気が差す場面ももちろんあった。
岡山において縫製業は、さすがのものでコロナ禍においても募集はそれなりにあった。その選択肢の中で、いちおう僕だって経験者であり、働けさえすればなんでもいいという弱い立場でもないので、面接でしっかりと会社を見定め、就職先を決めようと思った。
そんな状況で、僕は37歳の誕生日を迎えたのだった。
(おめでとうございます!)