2020年12月30日水曜日

もうすぐこの1年が終わる

 なにから話しはじめればいいだろう。
 今日までとうとうブログを投稿しなかったこの12月、どこでどうしていたのかといえば、ファルマンと子どもたちを岡山に残したまま、僕だけがファルマンの実家に暮していた。なんだその状況は、という話なのだが、成り行きでそういうことになった。
 こうなったいきさつについては、さかのぼろうと思えばいくらでもさかのぼれてしまうのだが、なるべく手短に語るとして、10月から話をはじめることとする。
 10月から僕はとある会社に再就職をした。それは結局のところ縫製業で、縫製業だけはもうしないんじゃなかったのかという話なのだが、このことについて説明しようとすると、話がさらに1ヶ月くらいさかのぼることになるので、割愛する。端的にいってしまえば、「やっぱり縫製業しかないな」と再就職し、そして15日くらいで、「やっぱり縫製業ないな」と結論付けた、そんな10月ということだった。
 そして縫製業に就かないことに決めた以上、われわれ一家が岡山で暮らす意味はなにもない、ということを思った。ここに少し論理の飛躍があるような気もするが、夏からの再就職活動(その失敗)や新型コロナウイルスで、気持ちが弱っていた面もあるのだろうと思う。それで10月中にファルマンに、「どちらかの実家の近くで暮らそう」ということを提案した。それに対し、はじめは強く拒絶された。なにしろ子どもは小学生である。7年前までのように気軽に移住はできない。しかし説得を続け、納得してもらった。そして関東に住むのはいろいろな意味で現実的じゃないので、移住先は島根ということになった。
 そんなわけでひと月限りで転職先からは退職した。コロナ感染のないことが2週間経ってはっきりしてから11月中旬にこの日記に書いた、11月初頭に行なった僕だけの横浜行きは、そんなあたりのことの報告も含めての帰省であった。母にはこれまで工場閉鎖のこともなんにも伝えていなかったので、いろいろ驚いていた。
 横浜から戻ってきて、11月は島根での就職先探しの日々だった。7年前、島根から岡山に移住するときは、面接を受けたり部屋を探したりしに来るだけで大変だったが、今回の場合は実家というベースキャンプがあるため、そういう意味では楽だった。そうしてなんとか11月中に就職先を決めることができた。
 この就職先の出勤開始が、12月からだった。就職が11月中に決まり、1月からだと間が空きすぎるので、当然といえば当然ではある。そもそも、移住は子どもの学校の年度に合わせて3月に行なう予定だったため、僕だけがファルマンの実家に居候し、ファルマンら3人は引き続き岡山で暮すという形が生まれることは不可避だった。だから当初は、就職が1月からになったとして、1、2、3月はそうして過すことになるなあと漠然と考えていた。しかし3月までの長さや、3月の引っ越し料金の高さなどを勘案し、もういっそ2学期終わりに移住を決行してしまおうじゃないかという話が、急転直下で決定した。
 こうして12月の間、僕がファルマンの実家に住んで、ファルマンと子どもたちは岡山で3人で暮し、パソコンなどは持っていっていたものの僕はブログを一切投稿しない(到底する気にならない)という状況が生まれたのだった。
 いやはやこの1ヶ月は、山陽から山陰への気候の変化、新しい職場、仮住まい、家族と離ればなれ、さらには歯痛と、本当になかなかハードな日々だった。
 思えば1月下旬に工場の閉鎖が告げられてからはじまった、この2020年の怒濤は、結局その余波が1年丸々続く結果となった。2020年というのは、本当に、人類にとって、僕にとって、壮絶な1年だったなと思う。いま岡山に戻り、年明けすぐの引っ越しに向けて、このひと月ファルマンがせっせと造ってくれた段ボールに囲まれながら、それでもなんとかかんとか、家族4人での年越しを健康に迎えられそうで、もう本当にそれ以上に喜ばしいことはないと、しみじみと思う。
 来年は誰にとっても、少なくとも僕の好きな人たちにとっては、なるべくいい1年になればいいと、切に願いながら、2020年最後の、岡山での最後の、投稿を終わりにする。