それにしても、どうして僕がこんなにも、大人が会社でどんなことをしているのか判らないのかといえば、それはやはり友達がいないからだろうと思う。僕にはあまりにも友達がいなかった。もともと大した数がいなかったのに、集団を離れるたびにそれまでの人間関係を清算しようとする癖があり、転職や引っ越しを繰り返した結果、いよいよ僕の周りからは友達と呼べる存在がいなくなってしまったのだった。高校や大学時代の友達が多くいれば、彼らがどんな仕事をしているのか知ることで、世の中の社会の仕組みを知ることができるだろう。友達だけでなく、友達の語る友達の友達のエピソードでもいい。そういう、「人の話」によって社会への視界はクリアになる。なぜなら社会は人でできているからだ。僕にはそれがないので、社会はいつまでも覆いが掛かったままだ。それでも自分が実社会の一員でないのならなんの問題もないのだが、そんなことはない。経営状態の悪さから勤めていた縫製工場は閉鎖が決まり、ろくな資格もないまま、新型コロナで停滞する世界において再就職活動をしなければならない。現実は過酷だ。人間関係がないので、なんのコネもツテもない。
この癖はいつから身についてしまったのか、と思う。
他人と長く同じ時間を過ごすと、自分にも相手にも、失敗や恥の場面が生まれる。僕はそれが嫌いなのだった。だから関係が切れてその思い出が消えると、とても清々しい気持ちになった。要するにプライドの高さということかもしれない。恥部を見せることにも、見ることにも、強い拒否感がある。取り繕った状態でしか人と接したくない。これまでこれは童貞をこじらせたせいだろうと漠然と思っていたが、考えてみたら子どもの頃からこの傾向はあったように思う。
小学校高学年の頃だったか、テレビでどこかの地方の祭りの情景を映し出され、その土地の鬼的な生き物に襲われた子どもたちが、泣き叫びながら逃げ回っていた。無様だった。
僕はそれを眺め、
「こんな姿を大人に見られたら地元にいたくなくなるんじゃないか」
ということを言った。すると一緒にそれを観ていた母親が、
「そんなこと言ったら子どもなんて、これよりもよっぽど恥ずかしい場面をいくらでも見られてるんだから」
と言ったのだった。
それを聞いて僕はとてもつらい気持ちになった。
産まれたときには皺だらけの赤い顔で、糞尿を垂れ流し、母の乳房に吸い付き、僕は育った。人はそれを経なければ成長できない。つまり人とは恥ずかしいものなのだ。だとすれば成長してから取り繕ってもなんの意味もない。そう吹っ切れる人間と、じゃあ自分の恥ずかしい場面を知らない人しかいない世界へ行こうと考える人間がいる。ここに人それぞれの人間関係のスタンスがある。僕は完全に後者だ。しかし恥ずかしい場面を実際に見られていなくても、生きているということはすなわち恥ずかしいことをたくさん経てきたということなので、避けたところで実はあまり意味がない。その意味の乏しいことに固執した結果が、いまの孤独だ。
(プライドを持っていたら損、プライドで飯は食えない、というのはたしかに真実ではありますけど、プライドのまるでない人間ほど醜悪なものもないと思います。獣から分離して文化と自意識を持つことにした人類にとって、これは永遠の命題でしょう)