2020年11月10日火曜日

エローパーツ

 先日、またエロ小説をブックオフに売りに行った。それで思った。僕はどうしてこう何度も、「大きい手提げ袋がふたつ満杯になるくらいのエロ小説を売る」ことができるのだろう。たしかに一時期、頭がおかしいくらい買い集めた時期があったが、それにしたって何度もでき過ぎだと思う。理屈になってない。どう考えても、いちばん多かった時期、部屋からあふれ出ていなければおかしい計算だ。しかしこの10年ほど、エロ小説はベッドの下の引き出しだけが許された置き場所で、そこに収まり続けている。そしてそこから何度も両手いっぱいに売りに行った。それなのにまだベッドの下にはエロ小説がだいぶ詰まっている。やはりおかしい。空間がゆがんでいるのではないか。あるいはエロ小説同士が引き出しの中で交配し、繁殖しているのではないか。なにしろエロ小説は、孕ませるのはお手の物なのだから。もっとも僕は「孕ませ」というジャンルは好きじゃない(大抵の子持ちは好きじゃないと思う)ので、そういうのはほとんど蔵書の中になかったりする。だとしたらなぜだろう。うーん……。……あっ! ……いや、そんなはずはないか、……でも待てよ、もしかして、やはりそうなのか? ……たまに買うからか?
 とはいえ一時期に較べてはるかに数が減っているのは事実である。ピーク時が「オレたちひょうきん族」の頃の片岡鶴太郎だとしたら、今はヨガインストラクターの片岡鶴太郎だ。それくらい、骨と皮だけみたいなボリュームになっている。しかし、片岡鶴太郎を引き合いに出したものだから話がややこしくなってしまったが、そうして濾過を繰り返したことによって、いま手元に残された数十冊は、本当に価値のある、世の中がどんな非常事態になっても絶対に欠かせない、いわゆるエッセンシャルエロ小説だけになっていて、居並ぶ背タイトルを見るだに、その布陣の豪華さ、隙のなさに、第2回WBC日本代表を見ているかのような気持ちになる。ここまでたどり着くのは、決して平板な道ではなかった。長い年月をかけて、じっくり精製を行なって、ようやく結実したのだ。つまり今ここに残った数十冊は、軌跡であり、奇蹟である。これほどの加工、本来は人間がその短い一生において、一代で完成させられるものではない。そう考えれば2020年時点で存在するはずがないのだ。それなのに厳然たる事実として、今ここにこの水晶ドクロは存在する。この謎は深まるばかりだ、と思いきや、よく見ればこれは水晶ドクロではなかった。片岡鶴太郎だった。