2020年11月12日木曜日

紅葉とマスゲームと天文

 寒い地域に出向いたら、ちょうど紅葉がすごかった。川ではなく山と山を繋ぐ架橋を車で渡っていたのだが、そうしたら眼下に広がる山々が紅に燃えていたのだった。紅葉なんて、枯れる直前の悪あがきみたいなもので、花のように尊ぶほどのものではないだろうと思っていたが、あれほどまでに圧倒的にやられると、さすがに「わあっ」となった。だから、結局は数だしスケールだな、ということを思った。1本の木の葉っぱが赤くなっても心は動かないが、1万本だと感動するのだ。じゃあ紅葉ってマスゲームみたいなものだな、とも思った。ひとりが色とりどりの紙を持ち、次々に持ち替えてもなんのこっちゃだが、それを1万人でやると「すごい!」となる。
 天体も、今は地表が明るいせいで、よほどの場所に赴かなければ満天の星空を見ることができず、だから夜空は基本的にあんなにもつまらなくって、古代から伝わる星座なんてものに、「昔の人ありえねー」と失笑したりするのだけど、昔は星がたくさん見えて、それはきっとマスゲームくらい圧倒的だったので、ずっと見ていられて、だから想像力を膨らませていくらでも星座が作れたんだろうな、と思う。
 都会育ちの僕は、昔から本当に天文の話に興味がまるでなくて、また天文の話というのは、「星の瞳のシルエット」的な、それに興味が持てる人はロマンチックで理知的で好感の持てる人物、みたいなイメージがあるのでタチが悪いな、ということを前から思っていて、まあそれは別にどうでもいいのだけど、もはやろくに星の見えない夜空なんかよりも、LEDとかで作るイルミネーションのほうが絶対にきれいだろう、ということをしみじみと思っていて、しかしそういうことを口に出していうと、「お前はなんて情趣のないつまらない人間か」みたいな断罪をされるのだが、でも絶対に星座を作った昔の人々は、いま我々がイルミネーションを見たときの感動で星空を眺め、星座を作ったに違いなく、だとすれば星座に情趣があって人工のイルミネーションに情趣がないなんて、ぜんぜん理屈になっていないと思う。僕は星座教に惑わされない。星座は、昔の人のマスゲームの感動が、たまたま残存しているだけのものに過ぎない。そこへ、仏教と同じで、のちのちの教徒たちが自分たちの都合のいい解釈を重ねていっているのだ。だから認めない。天文のロマンなんか認めない。