2020年10月16日金曜日

俳句の風景

 5月に運動会ができなかった小学校だが、寒くなる前の佳日に、せめてもの発表会的なものを開催するそうで、ということはあの、各学年でやるダンス的な演目なのかと思いきや、大体が徒競走やリレーらしい。「せめてもの」というコンセプトで催される、骨と皮だけの運動会で、採用されるのはそっちのほうなのか、と少し意外だった。もっとも休校で汲々とするカリキュラム的に、ダンスの練習時間など取れないという、実際的な問題もあるんだろう。ちなみに開催は平日で、観覧に関しても、その時間はその学年の子どもがいる親だけ、というシステムだそうで、普段でさえ子どもらの通うマンモス小学校の運動会は時間がタイトでシステマティックに行なわれるのに、今年はそれに輪をかけて、味も素っ気もなく、「催した」という事実だけが醸成されそうだと思う。
 ところでその練習として、ポルガは授業でこの頃リレーをしているそうなのだが、その際に気づいたこととして、「リレーのバトンは振ると音が鳴る」といい出した。はじめはなにをいっているのかと思ったが、リレーのバトンは筒なので、そこに空気が鋭く通ると、笛のようになって音が出るという、そういう話らしい。
 「俳句だ」と僕はいった。お前、それは俳句にするべき風景のやつだよ。
 それで夕飯の席は、俳句を考える場となった。こういうときいちばんに答えるのはいつもピイガだ。なぜならピイガは勢いだけでできている人間だからだ。その答えは、『リレーでねバトンが音を鳴らしたよ』というもので、実にピイガらしい、勢いの句だった。「「でね」とか「よ」とかを使うのはよしたほうがいいと思うよ」と寸評した。季語がないことは僕は別に問わない。
 ちなみにファルマンとポルガはなにも発表しなかった。
 じゃあ僕はどんな句を作ったかというと、『秋の日の走者が奏者となるバトン』というもので、上五は歳時記を見ればもっとふさわしいものが見つかりそうな気がするので便宜的なものとして、「走者」と「奏者」を掛けたのは、これはもう我ながら実に小手先のテクニック感がある。ちなみに「なる」もまた、「成る」と「鳴る」を掛けていて、もはや俳句をやってんだかライムをやってんだか判らない。寸評は「小賢しい」ということになるだろう。
 そんな秋の食卓。メニューはミートソーススパゲッティ。