2020年10月4日日曜日

ミュージカル映画を観て思ったこと

 映画「グレイテスト・ショーマン」を観る。ポルガが学校の授業で一部を観て興奮し、ぜんぶ観たい、としきりにいうので、借りてきて一家で観た(ピイガはろくに観なかった)。
 ストーリーは書いても仕方ないので書かないが、ミュージカル映画である。なので、ここぞという場面になると、登場人物たちはすかさず唄い出し、そして踊り出す。ミュージカルとはなべてそういうものだが、歌とダンスの勢いだけでさまざまな難局が解決されてゆくさまには、「葛藤とはなにか?」「心理描写とはなにか?」なんてことを考えさせられた。しかし先日の「赤毛のアン」でも思ったことだが、そもそも物語に葛藤なんて要るか? という気もする。映画鑑賞ですぐ寝てしまうことで知られる僕が、今回の「グレイテスト・ショーマン」では寝ずに済んだのは、ややこしいことが、話し合いではなく歌とダンスで取っ払われた(「解決した」というより、「取っ払われる」「薙ぎ倒される」といったほうが正しい)からに違いない。つまり、それでいいのだと思う。主人公の窮地は、往々にして解決するのだ。そんなことははじめから判っているのだ。勝った者が正義というのと一緒で、最終的には問題がぜんぶ無事に解決する立場の人が主人公になっているのだから、途中で主人公が陥ったピンチは、必ず回避される。はじめから判っているその回避を、「これがこうで、これがこうで、これがこうなるから、これで、こうして、こうだよ」と丁寧に説明されたら、まじめだなあとは思うが、思ったときには僕は寝ている。「問題なんて問題じゃないんだぜー!」と、なんの理屈にもなっていないことを踊りながら唄ったら、乱暴だけど、愉しい。こうして書くと、まるで僕が、直情だけで生きる、滋味を解さない阿呆のようだが、どっこい物語とはそうあるべきなのだと、断固として思う。そしてこれは、エンターテインメントだから、という尺度でいっているのではない。「高尚な作品」と銘打つような作品であっても、われわれはわざわざ架空の人物の葛藤になんぞ心を砕くべきではないと思う。葛藤は個々人が現実で抱いているものだけで十分だ。創作はそれをいくらかでも和らげることが、その役割ではないか。
 それにしたってミュージカルという手法はすごい。言葉のやりとりかったるい場面→唄って踊っちゃえ、という対処法がすごい。これを小説でやるとしたら、文章で綴ろうとするとややこしいことになりそうな場面→イラストとか漫画、ということになるだろうが、いわれてみればそういう小説って既にけっこうある。受け手が眠たくならないためなら、つまりなんだっていいんだと思う。どんなに偉そうなことをいってたって、寝られたら負けだ。