2020年10月24日土曜日

同一人物なのに名前が違うあの人々について

 人は、ひとりひとりみんな違うというけれど、実はそんなことないと思う。
 新しい職場で、少しだけ年下の、既視感のある人がいて、これ誰だっけな……、と思い返してみたら、大学のサークルにいた後輩だった。そっくりだった。むしろ同一人物のように思えた。なのになぜか名前は違った。でもやっぱり人間は一緒なんだと思った。たぶん、関東のその集団と、岡山のこの集団は、本来ならば誰も共有しないはずだったのだ。だから安心して、全く同じ人間が配置されたのだと思う。しかし縁故のない岡山に急に移住して、大学の学部とはぜんぜん関係ない職種に進んだ、想定外の厄介者がいて、そいつは全く同じ人間を知っているものだから、(あれ?)となった。このケースは前にも体験していて、大学時代のバイトの同僚は、島根での酒蔵勤めのときの同僚と絶対に同一人物だったし、書店員時代のパートのおばさんは、初夏まで勤めていた縫製工場にもちゃっかりいた。あまつさえこのおばさんに関しては、僕は本当に名前を間違えて呼んだことがある。それくらい同じ人だったのだ。これら同一人物たちが、どこまで自覚して同一人物をやっているのか知らないが、縫製工場のおばさんは、書店員時代の名字で呼ばれて、内心びくびくしていたかもしれない。
 こうして文面にすると、なんだか僕がノイローゼ患者のようだが、信じてほしい。本当に同じ人なのだ。東京と島根、東京と岡山とかだから、油断して差配したら、僕のような越境者によってバレてしまった。日本人は1億人以上いるとはいえ、新型コロナウイルスの蔓延が示すように、外部との交流の激しい世の中である。同時代の、せいぜい800キロメートルほどの距離で同じ人間を置くのは、さすがに攻めすぎだろうと思う。たまにはそういう、ぎりぎりのスリルを味わう遊びでもしないと飽きるのかもしれないが、僕のように、ふたりともと出会ってしまった人間は混乱するはめになる。巻き込まれるほうはたまったもんじゃない。
 ただこんなことをいっておきながら、例として挙げた3パターンとも、関東でその人と接していた時代から、島根や岡山で再びその人と出会うまでに、5年以上の月日が経っていて、かつ関東のその人たちとはそれぞれとの別離以来、もちろん一切の関りを持っていないことを思うと、島根や岡山でその人と会ったときには、関東のその人の姿はだいぶ霞がかっていて、というよりもほとんど忘れていて、そこへ似た性質の人が目の前に現れると、僕の中で関東のその人が、一瞬で目の前の人物に取って代わられ、僕の頭の中で同じ人物として処理されるだけのことかもしれない、とも思う。ノイローゼじゃない証拠に、そんなことも思う。
 これが実際どうなのかを判定するためには、当該のふたりの人物を同時に並び立てるよりほかに方法がないが、この話に登場した6人の人物とは、誰とも仲良くないので、そんな実証実験は夢のまた夢だし、もしも叶ったとして、ふたりを引き合わせた瞬間に宇宙が爆発するのも避けたい。なので真相は闇の中だ。