2020年10月31日土曜日

10月感傷

 10月が終わろうとしている。壮絶な10月だった。なにがどう壮絶だったかは、まだ10月自体は続いているし、壮絶の内容自体についても、これからしばらくそれは続くので、ワールドワイドウェブになんか書けない。ここにブログの限界があるな、と思う。「百年前日記」と銘打って、リアルタイムの読者のことを本当に意識の埒外に置いているのならば、どんな赤裸々なことでも書けるはずなのだが、やっぱりそういうわけにはいかないのだった。偉そうなことをいっているわりに弱いもんだ、と糾弾されたら返す言葉がない。
 思えば今年はちょうど感染症が流行っているため、「日記に書けないこと」の多い1年だった。あそこに出掛けた、あの人と遊んだ、なんてことを書くとそれだけで批判されるし、実際にそこから感染者が現れたりしようものなら社会復帰さえ難しくなるほどの締め付けだった。でもたぶんそれは、2年後くらい、新型コロナのことが解決した暁には、「2020年の4月くらい、わりと友達と遊んだりしてたんだ(笑)」というのは、普通にいえるようになると思う。それをさかのぼって怒れるほど人の心は長続きしない。またそのときにはそのときで、その人は別のことで怒っているから、2年前のことに怒る時間なんてないだろうし。
 ブログと、時間と、人生なんてあたりのことを考える。ブログはウェブログで、ウェブ上に残す自分の足跡で、それはつまり人生で、普通に生きていたら消える記憶、それを書き留めておくために書く日記、しかしそれもまた、たいていの場合は自分が死ねば配偶者や子どもに処分されるが、ウェブログはいちおういつまでも残り続ける。そう考えると、ウェブ上には、人の思念、すなわち人生、すなわち人自身が、残りすぎてはいまいか。ネット空間では何十億人もの人とつながれる、という言葉は、同時代を生きる地球の人口という意味であることが大半だが、物体としては消え去った死者がウェブ上には生き残り続けているのだとしたら、これからネット空間で相まみえられる人間の数は、どんどん増えていくことになるのではないか。そして僕の日記は百年後の人の目に留まるだろうか。百年後の人から見れば、僕の壮絶な10月のことなんて、本当に瑣末なことだろうと思う。