2020年10月6日火曜日

アンという名の少女

 「赤毛のアン」を読み終え、いまは「アンの青春」を読んでいるところだが、読むきっかけとなった連続ドラマ「アンという名の少女」は先週が第4話目で、アンが学校に行く話だった。僕の中でアンの物語は、とにかく多幸の物語という認識で、カナダの大自然を舞台に綴られるアンの輝かしい日々の記録に触れ、われわれ読者は心を浄化させる、という仕組みだと捉えているのだが、これまでもアンが犬ドッグ並みにトラウマだらけという予兆はあったにせよ、ここに来てドラマ版はいよいよ、今回のドラマ制作のコンセプトはそういうことではない、ということを明確にしてきた。バカみたいに青い空、白い雲、そして緑の切妻屋根、なんて鮮やかな風景はこのドラマにはない。人種とか、身分とか、児童虐待とか、そういったテーマのもたらす翳りが、全編に渡って画面をくすませている。現代的だな、と思う。インターネットができて、さらには人々がスマホを持ちはじめてから、人の得る情報の量はそれ以前の人類と較べて1万倍くらい多くなった、というのを以前どこかで読んだけれど、これはまさに「赤毛のアン」の、かつてより1万倍の情報量を得ることになった人類による翻訳、みたいなドラマだと思う。とにかく頭でっかちで、問題提起や、解釈をしたがっている。なぜなら現代人はそれを行なうための取っ掛かり(情報)が与えられているので、せずにはおれないのだ。青、白、緑の単純な世界では、手持ちの情報が空転してしまう。もっと解釈をさせてくれないと満足できない。語れないと、バズらない。だからこうなったんだろうと思う。なにぶん原作の多幸感をこそ尊んでいる立場なので、ドラマ版は観ていて厳しい部分もある。もっと陽が射してほしい、と画面を観ながらずっと感じている。でもやはりこれも情報によると、このドラマ版はこれからもっと社会問題が織り交ぜられてくるらしい。そうか。いや、まあ小説とは別物として、もちろん愉しいは愉しいので、これからも観るけれども。
 それに引き換え、というわけではないけれど、読んでいる「アンの青春」の中で、とても心に響いた場面があったので引用する。


「もしもキスが目に見えるとしたら、スミレに似ているのじゃないかしら」プリシラがいった。
 アンの顔がぱっと輝いた。
「プリシラ、今の言葉、口に出していってくれて、うれしいわ。頭の中でそう考えるだけで、ひとり占めにすることだってできたんですもの。みんなが自分の気持ちを口に出していってくれたら、世の中はもっとすばらしくなるのにね――今でもすばらしいけれど、もっとすばらしくなると思うのよ」
「聞きたくないようなことをいう人も出てくるわよ」ジェーンがわけ知り顔でいった。
「そうかもしれないわね。でもそれは、そんなひどいことを考えている人たちのほうが悪いのよ。ほかの人はともかく、今日のわたしたちは、どんなことをいっても大丈夫よ。だって今日は、すてきなことしか考えないんですもの」


 Twitterとかのことを考えながらこの部分を読むと、とても沁みる。1万倍的解釈だけど。