2020年10月7日水曜日

ブログは収束した

  ブログは収束と拡散を繰り返すのだが、このたびそれが収束期に入った。かくして爆誕したのがこのブログである。これが5つ目の記事となるが、昨日まではブログタイトルが違っていた。「いま」このブログを読んでいる人にとっては、それは知る人ぞ知るカルト知識となるだろう。SMAPやTOKIOも、創成期にはメンバーのいろんな変遷があったように、この「百年前日記」も、当初はきちんと形が確立していなかったのだ。
 そんな幻のブログタイトルは、「PANNE」といった。発音は「パン」である。このたび僕はモンゴメリの「赤毛のアン」に嵌まっており、そこから「「E」のつくANNE」のパピロウver.ということで「PANNE」だった。でもこれは完全に見切り発車のタイトルだった。赤毛のアンに傾倒しているからって、パピロウがパンになる理屈はないし、なにより見た目的にどうしたって「パンネ」といいたくなる。パンネで日記ということになると、「赤毛のアン」ではなく「アンネの日記」が思い浮かんでしまうほか、これは本当に開設してから思い至ったのだが、僕が登録しているハンドメイド販売サイトは「minne」(ミンネ)だったりするので、本当に「PANNE」というタイトルはよろしくなかった。そんなわけで4日でお蔵入りとなった。「いま」ではすっかり定着した「百年前日記」には、実はそんな過去があったのである。
 タイトルを変更したことによって、「赤毛のアン」への敬慕はブログの要素としてすっかり失われてしまったのか、といえばそんなことはない。むしろ強くなっている。
 ところでブログというものは、2020年現在、なかなかに廃れている。完全に廃れたわけではなく、一見それなりに営まれている雰囲気があるが、それは人口減少と高齢化の波にさらされる地方都市みたいなもので、長く定点観測している者には判るが、じわじわと着実に衰退してきている。リアルタイムの情報を得たり、発信したり、人間関係を広げたりするのが目的ならば、ブログがSNSに敵うはずがなく、そして当世の大部分の人々は、インターネットにひたすらそればかりを求めるのである。そのためブログは完全に取り残されてしまった。ブログはその発想の根底に、本や日記がある。コメント欄なんかはあったりすることもあるにせよ、基本的に一方向だ。しかし現代はネオ互助社会なので、一方的な発信には意義がない。ひとりよがりの文章には需要がないのだ。
 でも、ひとりよがりじゃない文章には、僕は逆になんの価値もないと思う。読み手にわかってもらうためだけの文章なんてくそくらえだ。そんな文章は淫売だ。それらはもはや文章でさえなかったりする。ハッシュタグばかりを並べて、「いいね」という名の交合を待っている。品性がない。まるでフェロモンで動く虫のようではないか。
 いまあえてブログを収束させ、新たな大ブログを発進させるのだとすれば、このような現状に対する反抗心が含まれていなければ意味がないと思った。僕はなぜブログを書くのか。それはもちろん自分のためである。でも自分のためだけならば、ネットにアップする理由がない。アップするということは、偉そうなことをのたまっておきながら、結局は他人から褒めてもらいたいってことなんじゃないのか。そうではない。そうだけど、そうではない。1908年に刊行された「赤毛のアン」を、2020年の僕が読んで感動したように、僕はこの「百年前ブログ」を、百年後の、すなわち「いま」のあなたたちに向けて書く。あなたたちの「いいね」は僕には直接届かないが、そのことに思いを馳せながら書こうと思う。