2020年10月12日月曜日

Twitterに対する複雑な感情について

 ブログが収束したと同時に、Twitterでほぼ毎日ペースでやっていた短歌も止まってしまった。ブログとは別物なのだから、あれはあれで続ければいいように思うが、収束と拡散というのは、要するにそれまでの体制に対するウンザリから起るわけで、そのウンザリの中にTwitterも含まれていたということらしい。
 Twitterを開設したのは去年の8月なので、14ヶ月ほどやったということになる。その感想として、Twitterというのは、たしかにブログなんかよりもはるかに外界と繋がりやすく、反応を得やすいが、でも本当にただそれだけのものだな、と思った。それまで10年以上、ほぼ他者のリアクションがない状態でブログをしていたものだから、ぜんぜん知らない人の寄越した「いいね」に、はじめのうちは色めき立った。でもだんだん、あまりうまくない歌には「いいね」がつかず、うまいこといっている歌には「いいね」がつくさまを見て、そんな歌の良し悪しなんて、わざわざ他者に「いいね」で評価されんでも自分で判ることだし、それにきっと、知らず知らずのうちに、自分は「いいね」がもらえるような歌を詠みはじめている、ということを感じるようになった。僕のTwitter上に並んでいる歌を見ても、とてもそうは思えないかもしれないが、僕の中ではそう感じていた。だとすればそれって、一種の添削であり、矯正であり、もはや結社だ。巧者のいない結社。そう考えれば、ただでさえ結社に所属しようと思わない僕が、結社の、それも巧者のいないやつに身を置く理由は一切ないということになる。巧者のいない結社って、それはもう、最悪だろう。ただの親睦会だ。実際そうだ。Twitterって、要するに親睦会だ。集いたいタイプの人たちが集う場所。そして現実世界の親睦会に、僕は参加するか、という話だ。地域の祭りの会合に参加するか。PTAの打ち上げに参加するか。もちろんしないのだ。するわけないのだ。全力で避けて生きているのだ。そんな僕がなぜTwitterをするというのか。そもそも理屈になっていなかったのだ。
 というわけで、しばらく勃鬼の短歌Twitterは休むと思う。時間を置いて、自分の中でなにかの整理がついたら、またはじめようと思う。不意に思いついたことを、メモ代わりに記しておく、という力の抜けた使い方なら悪くないと思うのだ。そこに、なにぶん反応を得やすいツールであるがゆえに、功名心のようなものが発生してしまうのがよくない。しかし功名心が本当にないのなら、メモをTwitterでやる意味ってなんなのか、ということになる。ここが解決しない。